2010年6月7日月曜日

喬木村立椋鳩十記念館・図書館と椋鳩十

はじめに
 喬木村(たかぎむら)は、天竜川を挟んで飯田市の対岸に広がる河岸段丘地にある。児童文学者であり鹿児島県立図書館長当時の活躍で、日本の図書館界に大きな礎を築いた椋鳩十(本名:久保田彦穂)が中学卒業までの多感な少年時代を送った地であり、また晩年別荘を建てそこを拠点に講演と執筆の多忙な日々をすごした地でもある。喬木村の図書館は公民館内図書室として永くあったが、平成4年に椋鳩十記念館設立を機に、これを併設した図書館として開館した。

 図書館・記念館の開館にあわせ、村は此処を基点に椋の胸像がある久保田家の墓地までの約3キロを遊歩道として整備した。図書館からの眺めは特に西面の中央アルプス側の山稜の眺めがすばらしい。図書館は、椋鳩十を意識して児童書に力を入れた蔵書構成となっており西面には椋の作品などを中心に児童文学室がある。玄関を入ってすぐに靴脱ぎがあり、ここで脱靴して入館する。記念館入場者も同様である。記念館は一般展示室を挟んで図書館と構造的にはつながっているし、図書館が開館中は誰でも入場が可能である。むろん無料である。 
 久保田館長のお話しでは、入館者は、学校の遠足で見学に来る小学生が圧倒的に多いとのことであった。記念館で熱心な図書館長の説明を聞いた後に、左手に摺古木山などの山姿を見ながらの遊歩道の道のりは、遠足にはこれ以上はないといってよいほどのロケーションである。道すがら、喬木小学校、そして中学校があり近くには「とろりんこ公園」「ハイジの碑公園」や「アルプスの丘公園」などが整備されている。すべて、椋鳩十の作品にちなんだイメージでつくられている。実際、椋も小学時代はこの道を通学路として毎日使っていたはずである。

 椋鳩十記念館・図書館は、これらの施設やいまや史跡となった椋の胸像などと一体としてみなさなくてはなるまい。昭和のはじめに、椋は飯田中学(現飯田高校)に通っている。学級で中学に上がれる子どもは2~3名であったというから、当時の久保田家にはそれを支えるだけの経済力があったということである。彼の父親は、牧場を経営し近郊に牛乳を販売して生計を立てていたという。にもかかわらず、椋少年が好きな本を希望通りに与えてもらえるだけの裕福さはなかった。この非裕福さ加減が、後の読書運動推進運動の先頭に立った椋の素養を作っているのであろうか。

 記念館は、椋の書斎をイメージした和室にはじまり、少年時代の椋の生活環境を髣髴させる展示品で飾られている。少年時代の本人及び家族の写真が、私には特に印象的であった。昭和初期に家族の集合写真がとれるだけの家計ということである。椋本人の蔵書のほとんどは鹿児島県加治木町の記念館に保存されており、こちらには写真類が多く保管されている。
また、村民が中心となり椋および記念館を顕彰する会が作られており、紀要の出版なども行われている。

≪下伊那の花火≫
「遠花火 消ゆるあとには ほしのさと」図書館玄関前に椋本人により揮毫され設置されている自作の句碑である。
 下伊那では、夏祭りに花火を上げるのがどこの神社でも慣例になっているようだ。だから夏は毎週花火の打ち上げが見えるというのだ。特に、伊那山地側から下伊那平を一望できる位置にある喬木村からの眺めはさぞやの景観であろうかと思われる。このことは、椋の長男久保田喬彦氏が著わした『父・椋鳩十』で父から直接聞いた話しとして語られていることである。平成15年の記録を見ると、7月24日(土)深見の祇園祭(阿南町)に始まり、8月にはいって毎週下伊那のどこかで祭りが行われ、必ずといっていい程度に花火が打ち上げられるのだ。なかんずく8月13日(金)~16日(日)は4日連続となり、とりわけ14日(土)は浪合村、大鹿村、根羽村の3箇所、15日(日)は喬木村、上村、売木村、天龍村の4箇所と集中し、その後も毎週土曜または日曜日を中心に10月中旬まで途切れることなく打ち上げ花火付きのお祭りが開催されている。椋が子どもたちに言って聞かせた伊那盆地の花火の豪快さは、あながちどころか、想像以上にすばらしいものなのだと思う。

 私が、伊那谷を訪れて感じたものは、例えば自分が住む秦野市においても感ずると同質の、落ち着きや安心感といったものである。あるいは、その思いは伊那のほうが山の深さや大きさの面でずっと勝っているだけ強いのであろうと思われる。山を抱えたものが、その土地に感ずる安心感といったものである。
 山はまず、豊富な栄養分のつまった飲用水を間断なく里に提供してくれる、台風や雪から里を守ってくれる。四季折々の風景は、美しく変化に富んでいる。加えて伊那谷は比較的広い耕作に適した傾斜地を、天竜川沿いにもっている。幾重もの河岸段丘がそれだ。平野部に比して耕作面積も狭く同一面あたりの収量も少なくはあるが、季節ごとや朝夕の寒暖差が大きいため作物が美味に育つ。従って、作業者の努力は報われ、住みやすい環境がそこに湧出されていくのである。そして鄙の地ゆえに、今日の都や東京の文化に対する渇望が都会人に比べ非常に強いのだ。そのために信州わけても伊那地方を含む筑摩郡域は、教育に熱心なる土地柄として全国にその名をとどろかせている。

≪小説『夜明け前』の時代背景≫
 島崎藤村の晩年の小説『夜明け前』は、江戸末期から明治20年ごろまでの中仙道馬籠宿で本陣宿を営む戸主「青山半蔵」の生涯を描いた傑作だが、主人公半蔵のモデルは藤村の実の父親である。中学を東京の新興・明治学院中学で過ごした藤村は、多感な青春期を東京しか見ずに過ごした。そのことが、彼の西洋、ハイカラ好みを染色したが、反面父の国学仕込の学風を好まなかった。半蔵は、熱心な平田国学門人であり、自宅を開放し自ら私塾の教師を務めるほどの教育熱心な素封家であった。当時、南信濃地方には平田篤胤の国学を信奉する郷の者が多く、平田門下では全国でもトップクラスの質量を誇っていた、その発信地は下伊那であった。平田篤胤直下の弟子がこの地で国学の講義を開講したことによる。彼や同門の友人に会うため、半蔵は一日がかりの木曽谷から伊那谷への峠道を通うこと度々のことであった。『夜明け前』にはそんな平田門下生同士の交流の様子が、生き生きと描かれている。

 明治初期にこの地方は、新政府による地租改正、郡令の専断による入会地への権利剥奪により人びとの生活は疲弊した。半蔵は後に発狂にいたりそれが彼の命を奪うのであるが、その因となったのが、これらの民の窮状を救うべく奔走した努力が時の地方政府により壟断され、彼の戸長解職にまでいたったことにある(いわゆる「山林事件」という)。また一方では、半蔵の存命中に飯田事件のような重大事件が起こっている。地方政府の失政が地方政府転覆計画を企てるほどまでに、反体制的な気分が醸成されたことが背景となったのであるが、藤村は近世史の中でこれを語らずして何を語るかともいえるような「大事件」に触れることを何故か意識的に避けたといえよう、何故だろうか。
 平田国学のような皇国史観の色濃い思想を信奉する教養人が、何ゆえに新体制に絶望していったのか、明治維新とは庶民にとって何だったのか。『夜明け前』は半蔵の生涯を描くことで、このことを世に問うている。

≪下伊那地方の青年会運動と椋鳩十≫
 さて、一方で明治末期から盛んとなった養蚕産業により伊那谷の経済は急激に潤い、となりの飛騨の国(現在は岐阜県であるが、明治期の一時期は伊那と同じ筑摩県)から作業労働者を大量に雇い入れるほどにまで、活気にあふれた地域となった。これらの財政的な豊かさを背景として、学校や芝居小屋、人形芝居舞台などに加え、村々に公民館的な建物(青年会館)を作る機運が高まっていった。村々に伝統的に組織された青年会を中心に自由大学などの自主的学習活動が展開されていくのだ。その中で図書館(青年文庫)は、青年たちの新しい活気に満ちた時代の新知識をみんなで学習したいという欲求から生まれたものだ。青年たちは、わずかなお金を出し合って運営資金に当て、それでも足りない分は入会地の薪木切り出しなどによる労賃を当て、本を買う費用を捻出した。それは、小野村や、上郷村だけではなく、下伊那地方全体において盛んに行われた。
 
 そのような時、東京から英語の学生教師が飯田中学に赴任した。名を正木ひろしという。彼が下伊那の地を最初の就職先をして選んだ理由も、下伊那地方にみなぎる革新的なあるいは活性化した雰囲気に引かれてのことと思われる。彼は、いまだ封建的な雰囲気を引きずる中学校の内実になじめずにいる子どもたちを集めて読書会を開く。佐々木という後に法政大学の国文学教員となる先輩教諭と二人で読書会は運営された。その読書会は「またたく星の群れ」と命名された。この「またたく星の群れ」に、久保田彦穂という少年がいた。後の、椋鳩十である。
「またたく星の群れ」は彦穂少年にとっては、思い出深い人生勉強の場となる。椋は後に、ある講演で次のように回想している。
「正木先生は、田舎の中学生なんか聞いたこともないような、カーペンターとかカーライル、トルストイといった人びとの著作から、さわりの部分だけを原書のままガリ版刷りして配り、それを訳してくれそれから独特の解釈をしてとうとうと論じてくれました。佐々木先生は、現代作家のものをガリ版刷りにしてテキストを作り、講義してくれました」・・・「学校の休み時間なども・・・・我々のレベルまで下がって、「この野郎何をいうか」とか「それは間違いだぞ」と、(我々と)同じように口から泡を飛ばして(人生観や、世界観の)議論をやってくれました。私はあのころ。佐々木先生や正木先生に出会ったことが、ほんとうに幸せだったと思います。今考えてみても、何かしら幸福なものが心の中にポーッと暖かく浮かんできます」

 後に、法政大学に進学し詩作に励み、当時最も時代の先端を行く佐藤惣之助率いる「詩の家」でも将来を嘱望された若干20歳の才能は、このとき培われたのだと私は思うのだ。ちなみに正木先生は、大学卒業と同時に弁護士となる。その後弁護士として多くの難事件(首なし事件、広島八海事件、メーデープラカード事件、チャタレイ裁判、三里塚事件、丸正事件など)に立ち向かったあの「正木弁護士」その人なのである。そして彼が生涯をかけて取り組んだ活動、それが飯田事件の足跡を収集し、さらにその写真を多数残し後世のわれわれに伝えたことであった。彼の死後、残された資料群が飯田市立図書館に保管されたということも、別の項で述べたとおりである。
 そして椋は、次のようにも語るのだ。「『瞬く星の群れ』の文学仲間で、同じ村から通っていた学生が3人いました。私と水野は貧乏でなかなか本が買えないので、大沢が買ったばかりの本を、仲間である水野と私に読んでくれ、私たちは(それを)空を眺めながら聞くこともありました。・・・・(彼の読んでくれた世界の)空想が(私の中で)自由に広がりました」
 まるで、後に椋が鹿児島県立図書館長時代に取りくんだ読書運動(「母と子の20分間読書運動」)を彷彿させるようなシーンではないだろうか。彼が提唱した読書運動は、母親が一日20分だけ子どものために耳を傾け、子どもが音読するのを聞こうという運動である。子の感動や、心の移ろい、成長がそのまま母に伝わり、親と子が感動や喜びを共にする中で、親と子の絆、家族の絆を強めていこうという提案であった。
喬木村の子どもたちが、椋の本を読みながら、夏には毎週のように見える花火に驚きの声を揚げ、四季折々の季節感豊かな自然の中で成長していく、そんな村にいま椋の名を冠した図書館と記念館があるのである。
(この項、終了)

付記:
以上の論稿は喬木村立椋鳩十記念館・図書館久保田毅館長へのインタビュー(2008年9月20日)と、いただいた諸資料を参考にして西野の責任にて執筆しました。なお、図書館や事業、その他人物の評価についてはすべて西野が独断にて行ったものであり、インタビューにお応えいただいた内容とは別のものであることを念のためお断り申し上げます。
調査にご協力いただいた、久保田様はじめ図書館員の皆様に心より感謝申し上げます。 

参考文献:
『村々に読書の灯を-椋鳩十の図書館論』(本村寿年 理論社 1997 )
『父 椋鳩十物語』(久保田喬彦 理論社 1997)
『椋文学の軌跡』(たかしよいち 理論社 1989)
『母と子の20分間読書』(椋鳩十 あすなろ書房 1994)
『読書運動』シリーズ・図書館の仕事・16(叶沢清介 社団法人日本図書館協会 1974)
『信濃少年記 椋鳩十の本 第20巻』(椋鳩十 理論社 1983)
『夕の花園 椋鳩十の本 第1巻 』(椋鳩十 理論社 1982)
『鷲の唄 椋鳩十の本 第2巻』(椋鳩十 理論社 1982 )
『感動と運命 椋鳩十生誕100年記念誌』(椋鳩十記念館 2005)
『紀要 感動と運命』第2号(椋鳩十顕彰会・椋鳩十記念館 2008)
『夜明け前 第1部 第2部 』(島崎藤村 岩波文庫 2001)

「喬木村立椋鳩十記念館・図書館」
http://www.vill.takagi.nagano.jp/sisetu/muku.html 2008.10.1
「飯田・下伊那の花火(平成15年)」
http://www.pref.nagano.jp/xtihou/simoina/syoukou/event/e16nabi.htm 2008.10.1

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