2010年6月7日月曜日

図書館人としての島尾敏雄と奄美大島


はじめにー県立図書館奄美分館の成立

 鹿児島県立図書館奄美分館は、昭和33年4月に奄美日米文化会館を母体として発足した。住所は名瀬市井根町であり、場所は現在の名瀬市役所近辺である。建物老朽化と狭隘を理由に昭和39年現在の小俣町に新館を建設し移転を行い、そのまま現在に至っている。
 初代館長島尾敏雄氏は、文学者島尾敏雄その人である。島尾の館長就任については、すでに県立図書館長となって久しい久保田彦穂(椋鳩十)の支持があったと推察されるが、島尾は郷土研究家として知られていた文英吉前館長の死去の後を受けて、昭和32年12月から奄美日米文化会館長を勤めていた。日米文化会館を県立図書館奄美分館として残すという課題は以前からの懸案ではあったが、文化会館長就任後の島尾らの強い働きかけによりようやく実現に至ったとみるべきであろう。

 分館としての位置づけはなったものの、旧奄美図書館、博物館および日米文化会館の資料に若干の新規購入図書を加えただけの図書館の資料は、非常に厳しいものがあったことは想像される。記録によると、図書5,980冊、レコード630枚、その他博物資料となっている。
 ただし、日米文化会館の職員体制を引き継いだことが幸いして、7名の職員が配置された。サービス範囲は、奄美本島のほか喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の計5島14市町村である。これらの地域の読書活動センターとしての位置づけにたって、保存図書館・参考図書館・貸出図書館としての役割が与えられた。(『鹿児島県立図書館史』)

 東京での作家生活の破綻から立ちなおるべく一家をあげて奄美大島に移り住んだ島尾にとって、この図書館に職を得たことの心の安らぎは計り知れないほど大きかったと思われる。このあたりの経過は『南島通信』に「『奄美の文化』編纂経緯」として短い文章ではあるが記述されている。当時の県立図書館長であった久保田彦穂(椋鳩十)は仕事に関しては、厳しい水準を島尾に要求したらしい。島尾はこれに応え、熊本商科大学(現熊本学園大学)に出向いて司書講習を受けて司書資格を習得している。

 島尾の家族が昭和50年まで住んでいた官舎は分館の敷地内にあり、私が訪問した翌月には取り壊しになる予定ということであった(後に保存する方向に変更)。
 ちなみに、彼には妻ミホとの間に一男一女をなしたが、長女マヤはのちに成人して鹿児島純心女子短大の図書館司書となった(2002年死去)。親子2代にわたる図書館司書である。

 島尾は、館長としても強い信念をもって活動した。郷土資料の蒐集には特に力をいれ、立派な資料目録を刊行している。年1回の研究会報発行を継続し活発なる研究活動の成果に鑑み、昭和42年「奄美郷土研究会」が「第19回・南日本文化賞」(南日本新聞社)を受賞する。これらの活動に刺激を受け「瀬戸内郷土研究会」(瀬戸内町)「徳之島郷土研究会」などが結成されていく。これらの活動が、「琉球弧文化圏」論や後の「ヤポネシア序説」へと展開を見る柱石となるのである。
 実は、島尾は「ヤポネシア」という概念を発想したのは、館長時代に琉球弧としての島々を講演などで廻るうちに思いついたといっている。与論、沖永良部、徳之島などの離島も大島分館のサービス範囲であったことから考えると、この説明もあながち韜晦とはいえないだろうし、つまるところ図書館長としての活動が、島尾の文化人的素養を大いに触発したということなのである。

 一方、当時としては先駆的な日曜日開館や住民の読書活動支援などに全力にあたり、離島の教育委員会や公民館を通じた図書の貸借、港の待合室や船内での読書室の設置活動に力を注ぎ、これらを支援するため時には自ら船に乗って離島への移動サービスに尽すなど、日本の離島を抱えた地域における図書館活動のあり方に影響を与えている。(『図書館人物伝』)
 日曜開館などは沖縄における琉米文化センターのそれを想起させるが、港の待合や船内読書室などへの配本は島尾の独創であろう。図書館法第3条第5項は「分館、閲覧所、配本所等を設置し、及び自動車文庫、貸出文庫の巡回を行うこと」となっているわけで、島尾の行ったことは法に基づく一般的な活動の一環であったとも言えるのである。 
 島尾は昭和50年まで17年間奄美分館長を歴任し、椋に遅れること9年にして定年をもって職を辞している。椋も島尾も、かたや動物児童文学、かたや純文学と分野は違えども、ともに文学に身をささげながら、図書館人としても一流の活動をなしえた。この様な島尾の活動の足跡がこの島に残っていないわけがない。

≪現在の奄美分館≫
 奄美分館の話しに戻るが、現在この図書館の最大のイベントはおそらく「ネリヤカナヤ創作童話コンクール」であろうと思われる。(「ネリヤカナヤ」とは、奄美の方言で「海のかなたの楽園」の意味。)数年前分館に赴任した指導主事の発案で、子どもたちの読書意欲を喚起するための創作文学コンクールを全島で始めようと呼びかけ、瞬く間に広がったという。毎回300~500件の応募があるとのことである。募集するのが感想文ではなく創作文学というところに「ネリヤカナヤ」の独創があるが、人口10万に満たないこの島においてこれだけの数の応募があることに驚きを禁じえない。作品を見ると応募者は小学生から高校生にまで及んでいる。低学年の作品に島の民話や自然を色濃く反映した作品が多い。

 その他、予算削減で停滞しがちの昨今の図書館活動ではあるが、この図書館は誠に元気はつらつとしている。
「奄美ならでは学舎」は、平成18年度から赴任の有馬現分館長の発案で始まった連続講座である。予算措置はゼロであるが、島を愛しさまざまに研究を重ねている識者を招き、島の自然、産業、歴史、民俗、文学、島唄、芸能などについて講演してもらっている。
 また、狭隘なスペースをものともせず、高校生のための「進学支援コーナー」や大島地区のビジネス活性化のための「ビジネス支援コーナー」を設置している。
 この島の誰もが聞いているという、有線放送に毎月図書館アワーを設け、新着案内や職員の朗読による民話の素話しを放送してもらっているという。
 もちろん島尾が心血を注いで収集した郷土資料や、「奄美郷土研究会」もしっかりと生き残って活動している。

≪ふれあい読書フェスタ≫
 『鹿児島県立図書館史』によれば、奄美分館では昭和55年から「朝読み、夕読み」を提唱した結果、本を読むグループが大幅に増加し現在に至っているとある。
 同書の記録によれば、昭和34年から郡内に19箇所の貸出文庫出張所を設け、3ヶ月に1回の頻度で35冊を1組にし、希望組数の定期配本を始めたとある。昭和36年度の実績は9箇所であったが、その後規模冊数ともに改善を図り、昭和57年度からはじめた「学校、地域、家庭の三者一体を軸とした『かごしまの子、朝読み・夕読み』推進運動」により昭和60年度には、読書グループが(一般)読書グループ195、朝読み・夕読み230、親子読書79までに成長を遂げたとある。人口比からして読書会数500という数字は、単純に考えて尋常な数ではないだろう。

 昭和54年度には、第1回奄美地区読書普及研究会が与論島を会場に開催され、読書グループの経験交流。共同学習が行われるようになる。平成に入ってからは「ふれあい読書フェスタ」と名を換え交流の規模も大きなものとなった。
 また、読書優秀団体表彰と「ネリヤカナヤ創作童話コンクール」の表彰がこのフェスタの中で行われるようになる。奄美版図書館大会といっても過言ではないが、読書運動を背景としたこのような大会がこれだけの規模で今なお続いていることに驚きの印象をぬぐえない。
 「ネリヤカナヤ創作童話コンクール」への応募数も、このような全島的な読書運動の広がりを背景に必然的に生まれた数値だったのかと納得がゆくわけである。
 このような、図書館の盛況ぶりは記録からすれば、島尾の退職後になって花開いたものではある。しかし、彼の努力なくしてその後の隆盛はなかったのではないだろうか。

≪夢の県立奄美図書館の完成間近≫
 平成21年4月には、放送大学も入居予定となる鉄筋コンクリート造3200平米の鹿児島県立奄美図書館が開館する予定である。もちろん初代分館長島尾敏雄を記念するコーナーも設置される予定である。
 東京で病み疲れた妻との生活を転地という思い切った形で転換させる為に、妻との出会いの地に近い島に移り住んでみた結果、島尾敏雄は偶然といってもよいタイミングで図書館長という安寧の職を見出した。やがて、その安定は東京での凄惨な体験を文学に昇華させ、成果物たる『死の棘』を書かしめた。島尾夫妻と二人の子が20年間にわたり、生きることへの再生と家族愛をはぐくんだ、そんな不器用で生真面目な図書館員家族の生き様を見つめてきた図書館が、いまようやく全島民の誇りと期待を担ってリニューアルオープンの時を迎えようとしている。
半世紀にわたる鹿児島県立奄美分館の歴史が、いよいよ大輪の花を開こうとしている。 

≪愛の瀬戸内町立図書館≫
 伊藤松彦は国立国会図書館を定年を待たずに53歳で退官後、鹿児島短期大学で図書館学を講じ始める。1976(昭和51)年のことである。前任者は、元徳島県立図書館長蒲池正夫であった。当時ライバル校の鹿児島女子短大には、椋鳩十が同じく図書館学を講じて健在であった。
 1979年、長崎純心短期大で図書館学を講じ始めた平湯文夫の呼びかけで「九州の図書館づくりについて語り合うつどい」が雲仙で行われる。伊藤はそこに参加している。「語り合うつどい」はその後沖縄県の図書館人を巻き込んで、九州・沖縄地区の図書館振興の発信源となった。同じ年「鹿児島県社会教育学会」が結成され、伊藤はこの会の結成会員として参加。
そんな中で、1980年鹿児島で全国図書館大会が開催され、県立図書館新館完成と元館長椋鳩十(久保田彦穂)の日本図書館協会からの表彰が重なり、当時の鹿児島県図書館界はお祭り気分にわいたことであろうと思われる。
 伊藤は、県社会教育学会に集う研究者らの協力を得て1984年『農村の暮らしと学習・情報要求』を日本図書館協会から上梓する。これは、彼自身が助言者として開館(1980年)にかかわった沖永良部島和泊町立図書館の活動を通して、農業・離島地区における図書館活動の可能性を実証調査した記念碑的報告書であった。
以上の経過は、図書館問題研究会機関誌『みんなの図書館』に伊藤自身の執筆で連載した「大またで歩く」に詳しく載っていることだ。

 このような、気運の盛り上がりのなか与論島に図書館ができる(1984年)。また、浦添市立図書館の後に続く沖縄本島での、具志川、石川、勝連、宜野湾などの市立図書館建設ラッシュが続き、その勢いは1996年当時まだ村であった豊見城村に図書館をつくらせ、糸満市立図書館およびそれ以降の町立図書館などの建設へとつづく、沖縄における図書館建設の止まらない流れが作られたのである。

 瀬戸内町立図書館の設立は、1990年にできた石垣島の図書館に続く奄美群島を含む南島諸島弧の図書館づくりの輪の中で、1993年に出来上がったといっていいのではないかと私はおもっている。
 伊藤松彦は1996年の講演で、「鹿児島県では大島郡奄美の図書館が先進をいっている」という趣旨の発言をしている(『鹿児島の図書館 内と外』)が、瀬戸内町立図書館はその奄美大島にある7つの図書館のなかで一番大きな図書館であり、かつ2階部分には博物館施設である「瀬戸内郷土館」を持つ図書館なのである。

 瀬戸内町は名瀬から南へ車で1時間半の峠越えの町である。町立図書館は町の中心地区である古仁屋(こにや)の港近くにある。島尾が活躍した時代はおそらく船で移動したのであろうか。
 島尾が戦時中赴任した加計呂麻島は自治体区分としては瀬戸内町に属する離島であり、戦後結婚し島尾婦人となったミホもこの島の出身である、彼の出世作ともいえる『出孤島記』はこの島に水上特攻兵器(震洋)基地司令官として駐屯し、何時指令されるかも知れぬ死出の出陣への恐怖心を孕みつつ、島の旧家の娘(ミホ)との愛をはぐくむ緊迫した日々を描く自伝的短編小説であり、その続編とも言うべき『出発はついに訪れず』も、すべてこの島での原体験にもとづいて書かれた私小説である。
 また、昭和20年5月に島尾は『はまべのうた』という童話を書きミホに送っている。この作品こそ、特攻隊長と島の娘との出会いというやや不自然な小説(『出孤島記』)の設定を溶かしてしまう鍵となる島尾の処女作といってもいい作品であるが、まさに二人を結び付けた絆が加計呂麻島で作られたのである。そのような事情から、瀬戸内町は島尾の死後この島に島尾の文学碑を建てた。
 私は、島尾の作品の核心がミホとの確執にあり、ミホも後にいくつかの小説を書いている事実を考えれば、島尾夫妻のための文学碑にすべきであったかとも思うのであるが・・・・・。(「島尾敏雄没後二十年記念シンポジウム録」)

 瀬戸内町立図書館では、自動車文庫をこの離島にも展開している。町内巡回ポイント40箇所のうち22箇所をこの離島内に設置している。また、保育所、学校、読書クラブなど20箇所以上に団体貸出しを、公民館、診療所、待合所、フェリーの船内に定期的な配本を行い、町の随所に閲覧できる環境を整えている。
 40の巡回ポイントのうち8つの集落に親子読書会が活動し、別に「プラネット」「パンの木」などの読書グループが本館内で活動中である。自動車文庫を離島に巡回する際は、島尾と同様フェリーに車を載せ職員も車とともに大島海峡を渡るのであるが、このような全町民へのサービスを徹底する姿勢には島尾敏雄の残した業績を踏襲した気配があるのである。
 ミホ氏が島尾の死後、彼の個人蔵書をこの町の図書館に寄贈することに心動かした背景には、この図書館が海峡を挟んで島尾とミホの出会いの場と指呼の間に位置していること、島尾の図書館人としての志を引き継いだ活動の質がこの図書館にはあると確信したからであろうと私は想像するのだ。
 瀬戸内町立図書館では、ミホ氏から寄贈を受けた文献や島尾敏雄文献の収集家からの寄贈を加えて館内に島尾記念文庫を設け、日本の戦後文壇に一時代を築いた文学者の顕彰に務めている。                  
 なお、島尾敏雄文学碑は瀬戸町の表玄関古仁屋(こにや)港の対岸、加計呂麻島の呑ノ浦(のみのうら)地区の入江沿いの公園(かつての自爆艇基地)に設置されている。          

 観光めいた話しのついでにまったくの余談ではあるが、大島の民謡「島唄」出身の歌姫・元ちとせの出身地は、古仁屋から車で海岸線沿いの道を30分ほどいった嘉徳(かとく)という入江の集落である。また、寅さんで有名な「男はつらいよ」シリーズの最終作(第48回、紅の花)で、浅丘ルリ子扮するリリーと渥美清扮する寅さんが奇妙な同棲生活を送る「リリーの家」は、加計呂麻島の南端にある徳浜(とくはま)という集落にある。現在はどちらも観光地として有名になっているようだ。
  (この項、終わり)


付記:
 この論稿は、以下に示した諸氏とのインタービュー及び、その際にいただいた資料を基に作成しました。図書館および活動、人物などの評価はあくまでも西野の独断において行っており、インタビューのとは関係がないことを、念のため申し述べておきます。
この場をお借りして、インタビューに快く応じていただいた方々や、ご協力いただいた図書館員の方々に心より御礼申し上げます。

訪問期間(2008年4月):

鹿児島県立図書館奄美分館(有馬秀人分館長)
瀬戸町立図書館(澤佳男館長、泰司書)

参考文献:
『鹿児島県立図書館史』(鹿児島県立図書館 1990)
『要覧 平成19年度』(鹿児島県立図書館奄美分館 2007)
『島の根』No.44(鹿児島県立図書館奄美分館 2008)
『第5回ネリヤカナヤ創作童話受賞作品集-奄美の小さな童話作家たち』
(鹿児島県図書館協会奄美支部 2008)
『平成19年度 図書館報』(瀬戸内町立図書館 2008)
「島尾敏雄没後二十年記念シンポジウム録」『瀬戸内町立図書館・郷土館紀要』第2号
(瀬戸内町立図書館・郷土館 2007)
『図書館人物伝-図書館を育てた20人の功績と生涯』
(日本図書館文化史研究会  日外アソシエーツ 2007) 
『南島通信』(島尾敏雄 潮出版社 1976)
『ヤポネシア序説』(島尾敏雄 創樹社 1977)
『鹿児島の図書館 内と外』(まちづくり県民会議 1997)
『みんなの図書館』No.336(図書館問題研究会 2005.4)
『みんなの図書館』No.339(図書館問題研究会 2005.7)

1 件のコメント:

  1. 伊藤松彦先生のお名前など、懐かしく読みました。島尾さんの娘さんが鹿児島純心の図書館員だったこともレアな情報です。ご存じのことでしょうが、島尾敏雄さんは福島県小高(現南相馬市)のご出身で、地元浮舟会館に般若雄高・島尾敏雄記念館がありました。避難解除でそろそろ再開でしょうか。南相馬図書館での顕彰はまだ不十分ですね。般若雄高と島尾の相馬武士団の末裔たちの対談は、現地で興味深く読んだことがあります。伊藤、平湯、島尾敏雄ミホ、西野、奄美図書館の話から近年につながるお名前が並んで登場して、うれしく拝読いたしました。(横浜の図書館応援団)

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