2010年6月7日月曜日

飯田市立図書館と豊穣なる下伊那文化

≪はじめに≫
 昭和6年、旧飯田城二の丸跡地に立地した飯田連隊区司令部庁舎あとに兵舎の建物を再利用した町立図書館が、設立された。昭和54年その図書館に変わる新市立図書館をつくるにあたり、駅前再開発ビル内とすべきか、旧図書館敷地に建て替を行うかで、議論があった。結果として、旧市立図書館と同じ土地を活用することになり、和(やまと)設計事務所の総括監理の下昭和56年7月に新中央図書館が開館したのである。
 なお、戦後の自治体合併により旧町村の公民館図書室を市立図書館の分館に組織換えした(昭和39年の合併で計14分館、)。また、鼎町とは昭和59年、上郷町とは平成5年合併しすでに町立図書館として活動をしていた実績のある2図書館は分館ではなく地域館の位置づけとなっている。平成17年、上村、南信濃村が合併し分館は16館となった。
 中央図書館および地域館はオンラインシステムにより結ばれている。地域館には週6日、分館には概ね週2,3日の頻度で中央図書館を基点に巡回車が運行されている。自動車図書館はない。職員体制は、中央図書館の職員8名、臨時職員7名(司書資格あり)ほか土日パート、地域館職員2,3名、臨時職員1,2名分(分館は開館日にあわせて日雇用の臨時職員が対応している)。
 教育長と図書館長を兼ねていた松澤太郎氏が市長に1972年(昭和47年)10月、就任し1988年(昭和63年)10月の退任まで4期16年を勤めた。その間には飯田市立図書館の建て替え、飯田市美術博物館、日夏記念館、柳田国男館の建築をし、人形劇カーニバル(現在の人形劇フェスタ)の開催を決めている。読書家としても知られている。松澤氏は飯田市の文化行政に特に力を入れた。このような関係もあり、従来飯田市の図書館は人材面で比較的に恵まれた時期がつづいたといってよい。中央図書館開館時には、司書の採用に力をいれ、司書資格者は希望にもよるが他への異動をできるだけ控えさせた形跡がある。歴代の館長、職員には退職後も地域の文化的あるいは資料充実面での貢献を怠らない、奉仕精神が旺盛である。このような、関係を見ると図書館文化の継承、発展と人材の養成とは深いかかわりがあるということが理解できよう。

≪下伊那周縁域の文化≫
 飯田市は戦後期の合併により特に文化面で大きな恩恵を得たといってよいのではないか、と私には思えるふしがある。上郷、千代、鼎地区は大正期青年会活動が活発に行われ、これらの村での自由大学活動などの影響を受け、上田市とならんで青年会と図書館も活発に活動した記録がある。図書館活動では旧飯田地区よりも千代、上郷地区のほうがむしろ活発であったともいわれる。(『自由大学運動と現代』)これらの地域は、自由民権運動における飯田事件、大正デモクラシー時代の飯田自由大学運動などの反体制的な気風の強い独立不羈ともいえる風土を継承しながら、地区々々の濃密なコミュニティーを残してきたようだ。
 また、旧上村、南信濃村の遠山郷からは後藤総一郎が出て後に「遠山常民大学」をおこし下伊那地区の歴史・民俗の掘り起こしを行うにいたる。椋鳩十は、中学時代の山行での出会いが縁となって、遠山郷和田地区の星野屋に入れ込み幾日も逗留する中で、毛皮取引の相手である「山の民」の生活を知るようになる。彼の動物小説の多くが山の生き物と動物たちとの駆け引きであったり、また心の交流がテーマとなるのはこのころに出会った、山里で暮らす人々びとから聞いた話しや交流が土台となっていることは疑いがない。また、このころサンカといわれる放浪の民との出会いを実際経験しているらしい。サンカ小説家としての椋鳩十と動物作家としての椋鳩十は根っこを同じくしているのである。
 椋鳩十の文学をはぐくんだ遠山郷から民俗学者後藤総一郎が出たのも偶然ではない。後藤はこの村の教育長を務めた父親と村長を務めた叔父を持つという。叔父が村長の時、『南信濃村史 遠山』の刊行をまかされ、結局生活費を投じてもなお足りずという状況の中で、村民の多くの証言や記録が主役のこれまでにないスタイルの「地方史」を刊行する。後藤はその後民衆が自身の地域を記録し、伝承を引き継ぎ、歴史や民俗を紐解く各地の「常民大学」づくりにのめり込んでいく。その後藤は、飯田市立図書館に通いつめて下伊那の何たるかを学んだのだ、とわたしは想像したい。
 「常民大学」の学びから、遠山郷の「霜月祭」の民俗学的重要さが見直され、現在では全国から多くの観光客をひきつけるイベントにまで発展している。こうしてみると、町おこし、村おこしへの飯田市における図書館の貢献度は計り知れないものがあろう。ローマは一日にして成らず、という金言が文化創造と図書館との関係においてもいえるのだということが分かる。

≪下伊那と人形劇≫
 飯田市では、1979(昭和54)年から、飯田市内の施設を会場に「人形劇カーニバル」が毎年8月上旬に開催されている。20年目の記念大会は「世界人形劇フェスティバル」を併催、海外12、国内23、伝統11の劇団を招待し、期間中5万人を超える観客があった。21年目の1999(平成11年)年に「人形劇フェスタ」と改称し体制も新たにスタートし、10年目の本年「世界人形劇フェステバル」を再併催した。現在も、長野県内外から300を越える劇団が参加し、市内100の会場を舞台にフェスティバルは続けられている。劇人だけで1500人、うち海外から50人、観客4万人という世界規模の大イベントである。
 伊那谷では近世以降人形芝居が村々で盛んに行われ、特に下伊那では人形本体も舞台も現存している地区が多い。実は、全国でも近世に起源を持つ人形本体や舞台が保存され現役で活躍しているなどということは、伊那谷以外ほとんど例を見ないのだという。(『人形芝居の里』)人形浄瑠璃座が現在でも活動する4地区(古田、黒田、今田、早稲田)のうち、特に黒田人形は保存会や、地元・(高陵)中学校人形劇部などの活動が特に活発で、我々も時としてテレビのローカルニュースなどでその様子を拝見させてもらっているほどだ。古田人形は蓑輪町にある、これは辰野市の南である。早稲田人形は阿南町の天竜川沿い部落に生きている。これは、飯田市の南にある。黒田人形、今田人形は現在の飯田市内で生きづいている。黒田人形は旧上郷村黒田地区の諏訪神社の春祭りに合わせて、境内の黒田人形舞台(国重要有形民俗文化財)で奉納上演される。黒田人形舞台は、私も見に行ったが誠に立派な人形芝居専用の建物である。中央舞台部分に立て柱を用いず梁の支力だけで大きな舞台を支えあわせる構造には、現代建築に通じるものがあるのではないか、とさえ思わせるものがある。(諫早市立図書館の開架室も天井の構造力だけで、柱を用いず広い空間構造をささえていた)
 平成9年にこの舞台とは別に市の「黒田人形浄瑠璃伝承館」が完成し、人形4座の交流・研修拠点となっているという。

≪豊穣なるコレクション≫
 飯田市立図書館は、かような学問・文化の気風、自立の気風を色濃く残す文化風土を引き継ぐことを鑑みた上で、新しい図書館の立地にふさわしい場所として旧飯田城二の丸跡地を再び選択させしめた、と思われるのである。
 現在この図書館の2階部分を占める郷土資料室は、このような歴史の蓄積の横溢に圧倒されんばかりだ。貴重なる資料群が公開書架を埋め尽くすという表現があたるほどに、質もボリュームも圧巻である。そして、書庫には目もくらまんばかりの特別コレクションが所狭しと並んでいるのである。この中で、いかにも「辺境地域文化圏」にふさわしいいくつかを紹介したい。
 ここであえて、「辺境」という言葉を使わせていただいたのは、ドイツ文学者池内紀(おさむ)氏の主張に沿ってみたかったからである。私の飯田図書館訪問の前日まで行われていた「第94回全国図書館大会神戸大会」の記念講演で、彼はこういったのだ。「文化それも個性的で人をひきつけてやまない文化は、その国々の中心にではなく辺境といわれる地域にこそ花開く、ドイツ語圏で言えばチェコやオーストリアなどドイツ文化圏の周縁地域である。フランツ・カフカしかりミヒャエル・エンデしかり」と。これは、私の図書館を巡るたびで、例えば沖縄浦添市立図書館における沖縄学研究への真摯な態度、奄美大島における読書会活動や創作童話活動の隆盛、伊万里市立図書館における「伊万里学」の展開などなどを、目の当たりにみて感じていたことと同一線上にある文化論であるとおもったのだ。

 竹村浪の人(なみのひと)という人を食ったような名を持つこの御仁は、東京で事業を起こすも関東大震災で財産を消燼し、故郷飯田に帰るも昭和22年の飯田大火災でまたまた資産を消失するが、飯田地方の文化的伝統の奥深さ全国に知らしめんがため、講談師となって創作講談を携して伊那地方などを巡回してまわったというかわった経歴の持ち主である。図書館が、市政70周年を記念して竹村を顕彰し、講演の生テープをCD化してこれを保存、後世に伝えるという事業を展開した。印刷体の講談集は全2巻、50部を発行した、自由民権末期に政府機構の転覆までをも視野に入れ計画されたが未遂に終わった「飯田事件」、江戸期ひとりの犠牲者も出さずに所期の目的をかなえた一揆として特筆される「南山一揆」などを物語化したものなどもあり興味深い。
 
 長野県には郷土研究誌の発刊が多数健在である。「長野県地方史研究の動向」(信濃史学会『信濃』第60巻第6号)によれば、『信濃』『長野』(長野郷土史研究会)『伊那路』(上伊那郷土研究会)『伊那』(伊那史学会)など老舗郷土研究誌のうちでも通巻900を越すのは『伊那』のみである。『伊那』は全国に会員1000名以上を数えるほどの勢いを保っており、現在に至るも継続して発行されている。母体である「伊那史学会」が飯田市立図書館と深くかかわりがあるのはいうまでもない。これらの資料はもちろんすべて図書館で保存され閲覧が可能である。「飯田事件」「南山一揆」の研究もこの郷土研究誌を舞台に行われた。身に一物とてない竹村がこの図書館の資料を渉猟し作品を作り上げたということは疑いがないし、市政70周年事業に図書館が彼を顕彰したということにこの図書館の姿勢のほどををうかがい知るのである。

 そして、「宮沢文庫」は 「ニコヨン学者の」として広く知られる宮沢芳重氏が、飯田の地に大学設置を夢見て生前東京で失対事業に従事しながら寄贈し続けた1000冊近くの知の集積とも言える人文書コレクションである。昭和33年には宮沢の寄付と働きかけによって、飯田高校の天文台の設置が実現したという。入院する前日までニコヨンと学生を続け、亡くなった後遺体は本人の意志で東京大学へ献体された(1970年没)。彼の名はその後伝説となり、全国からこのコレクションを拝観する見学者が今も絶えないという。
 「平沢文書」は、代々下伊那の地で庄屋となった久堅北原地区の平沢家で所蔵していた古文書群。平成16年県宝に指定された。戦国時代末から幕末にかけての検地帳、年貢帳など各分野の古文書約3,800点である。全国的にも屈指の地方文書(じかたもんじょ)として注目されている。寄贈された平沢清一氏は自身郷土史家としても知られ、51歳の時カリエスのため下半身不随となりながら、平沢家文書の整理、解読と郷土史研究に没頭した。『近世農村構造の研究』『農民一揆の展開』『伊那の百姓一揆』などの著作を残す。清一氏存命中に平沢家から飯田市立図書館へ寄贈され、現在は飯田市歴史研究所に移管、図書館ではマイクロフィルムで閲覧が可能。

≪図書館と市民活動≫
 さて、中央図書館には「生活とビジネスに役立つコーナー」がある。今様の課題解決型図書館論の趣旨を取り入れ、利用者の便に供している。現代的な課題にも果敢に取り組む姿勢をよしとしたいと思う。このコーナーの設置に当たっては、かつて経団連図書館でその名を全国にはせた村橋勝子氏の助言もあって、現市長直々の提案があってのことと聞く。この地での図書館の注目度を測る上で参考となるエピソードである。村橋氏自身の蔵書の一部も寄贈され、別にコーナーが設けられている。
 さりながら、この図書館の最も耳目を引く点は多くの市民活動の育成支援を行っているということのように私には、思えるのである。
 まず、50年もの歴史を誇る「婦人読書文庫」がある。PTA母親文庫の支部組織として始まった活動ではあるが、母親自身の読書会として発展的に改組し自主自立の読書組織「飯伊婦人文庫」として活動している。傘下に12の読書会を抱える大所帯である。事務局は飯田市中央図書館にある。昨年6月に「飯伊婦人文庫」が刊行した『みんなとだから読めた!-聞き書きによる飯田下伊那地方の読書会の歴史-』を読んでみたが、なんと下伊那地方には「飯伊婦人文庫」が把握しているだけでも70を超える読書会が活動中とのことである。これらの読書会の一つ一つの歴史を閲すると、読書会活動にも歴史・伝統というものがあるのだと納得させられてしまう。
 テーマを決めずにその時々に興味を持つ作品を選ぶグループ、島崎藤村や椋鳩十などゆかりの作者にこだわるグループ、日本古典文学専門のグループ、源氏物語だけを極めるグループ、旅と読書を楽しむグループ、ゲーテを原書で読むグループ、実にさまざまなテーマがあるかと思えば、音読、輪読など方法もさまざまなのである。伝統あってこその進歩あり、そして進歩がまた新たな伝統を作るのだということを思い知らされる、脱帽である。

 下伊那の戦後、新しい民主社会をつくるという希望に満ちた時代に読書会活動をリードしたひとりに、小野惣平がいる。彼は戦時下、上郷小学校の教師であり上郷図書館の司書を兼ねていた。戦時非常体制のもと小学校に図書館の運営主体が移された結果の人事ではあったが、大正デモクラシー教育が盛んな時代に多感な青春時代を長野師範学校で学んだ彼は、戦時下においても比較的自由な雰囲気で青年たちの読書会を指導し続けた。これらの活動が、戦後花開くのである。下伊那には、上郷以外にも戦時下読書会活動をつづけた青年会が多数あったという。そのような中で、何であれ読書会の母体は公民館、図書館、婦人部、青年会などをはじめ多様な形で脈々と続けられており、これらの読書会活動から育った人材がやがて次の読書会を組織する指導者になったりするのである。飯田市の場合は、そのもっとも典型的な例が元図書館長であり、後に元市長となった松澤太郎氏に求められるような感じの距離感で多くの指導的人材に事欠かない。
 
 かつて、上郷公民館の社会教育主事を努め、後に研究者となり日本社会教育学会会長を務めた島田修一氏は、この冊子に寄せた寄稿文の中でかたっている。まず上郷公民館に就職しようと心に決めたきっかけが大学生時代「長野県読書大会」へ参加したこと、公民館の青年学級のなかで読書会活動が多くの青年たちを支えただけでなく、自分と学級生との太い絆を築いたと強調している。それは、40年の時を経ても鮮やかに記憶されるほどの根を持つ体験なのである、と。そういう文章を読むと、下伊那の読書会は実に多くの人材を世に送り出しているといえるのである。

 飯田市立図書館では、そのほか朗読奉仕の会(80名)、文章講座(70名)など、市民が活動する場は枚挙に暇がない。上郷図書館の講座を出発点にそだった組織として、子どもの本研究会(20名)。手作り絵本の会、創作童話の会、おいもの会(60名)などがある。おいもの会は、児童図書の学習グループとして、会員は年間12,000円もの会費を払って年4回程度児童文学作家や編集者を招聘し、学習を重ねているという。この会のついては、上郷図書館の項で触れたい。

≪図書館まつり≫
 そして、この図書館の最大のイベント「図書館祭り」は、豊橋市立図書館との交流の中から生まれた事業として、特筆すべきであろうか。
 なぜなら、明治17年に起こった飯田事件は、自由民権運動における騒擾事件で秩父事件と並び、国家機構の略取にまでを計画をしたという点で同様の特色を持つことで研究者の間では評価されている。秩父事件と、飯田事件の違いは前者は騒乱を実行したことであり、後者は実行寸前で捕縛されたことである。この飯田における騒乱計画の首謀者は伊那地方出身者より三河地方出身が多かったことに、当時からの両地域の交流の濃密さをうかがわせるが、現代における図書館同士の交流にもこのようなことが息づいていることには驚かされた。
 いや、そんなことよりは天竜川流域の遠山郷一帯に広がる「霜月祭」、新野(売木村)の「雪祭り」、坂部(天龍村)の「冬祭り」といった南信地域の「奇祭」といわれる伝統的な祭りは、「湯立て神楽」という宗教的な儀礼を色濃く残す祭りとして今日あまたの民俗学研究の関心をひいているが、奥三河における例えば東栄町の花祭り(12月)などとの関係性を重視する視点などが注目されるのだ。つまり、近代における飯田線の敷設よりずっと以前から、天竜川と伊那街道・秋葉街道を縦糸に、これらの地域は蜜に行き来していた背景があるといったほうが、歴史認識のあり方としてより適切であろうかと思う。事実、南信州、奥三河、北遠域の県境三圏域交流懇談会が自治体主導で進められており、文化・観光・流通などの面での相互協力を図っているのだ。図書館における協力が、特別のものではないということでもある。
(私は、これらの文化圏の中核に秋葉神社の存在を見ようとするが、それは今回のテーマから少々ずれてしまうので、あとに譲りたい)

 さて、豊橋市のそれから学んだ図書館祭りは、どのようなものであろうか。
1昨年の第6回の実績を見ると、11月25日~12月3日の日程で、講演会は河合隼雄氏を予定するも講師の病気により中止、河合氏の著作を中心に3回の読書会を行う。堀家文書などの展示会。コラボレーションとして、文章講座OBによる自作の朗読会、講座、元図書館係長(現瑠璃寺住職)による図書館のお宝と歩みなどとなっている。
 訪問した当日は、展示会の最終日であったが、テーマは「三遠南信地域資料展」の最終日であった。まさに、伊那地方と遠州、三河地域の戦国の世の戦争と交流の歴史展であった。内容的には豊橋市図書館との共同による展示会である。
 翌日は、南信地域の信玄支配地における狼煙体験イベントを行うという趣向であった、市民による市民に根ざした地域文化活動を図書館が自らになっているといえよう。
 これらのイベントのための予算は、講演会参加費などですべて市民実行委員会が確保して実施している。まさに自立した市民の姿ではあるまいか、私などはすぐそのように思いたがってしまうのだ。

 なお、蛇足に類すると思われるが毎年「飯田歴史大学」が行われていたが、これは後藤総一郎氏が立ち上げた「遠山常民大学」の発展系として設立された柳田國男記念伊那民俗学研究所と図書館との共催事業である。1989(平成元)年、柳田國男の書斎が市美術博物館に移築されたのを機に、常民大学は柳田国男記念伊那民俗学研究所へと活動の場を移す。柳田は,かつて飯田藩士であった柳田家に婿養子に入ったため、自身の本籍が飯田に置かれたことが縁で生前たびたび下伊那を訪れ、講演や地元郷土研究家との交流を重ねている。『信州随筆』はこれらの交流の中で、触発されて刊行したものだ。そのような関係もあり、死後書斎(柳田自身「喜談書屋」と称した、話し好きの柳田らしい命名である。)が飯田に移築された。これには、後藤や下伊那の多くの郷土研究家の熱意が深く影響したことを後藤自身が告白している。(『柳田学の地平線』)
 そして、飯田市美術博物館のもとに研究所の運営が託されることになり、これに図書館が資料面での支援をおこなっていると聞いた。
 美術博物館は概観が中央アルプスの山稜をイメージした屋根を背負う、ガラスを多用した荘こうなる建物であり、自然、民俗、美術の学芸員を配置し伊那史学会、伊那谷自然友の会などの地域研究団体の連携と交流を支援している。
(この項、終わり)


≪上郷村と青年会図書館≫
 上郷図書館は、近代的な総2階建ての図書館であり、もはや大正から昭和にかけての青年会図書館の名残を残してはいない。しかし、青年会の図書館はこの図書館の裏の空き地に展開していたという話しを聞いた。飯田市との合併までは、図書館の入り口前に隆としてそびえる左右2本の門柱の右側柱には、「上郷青年会」という文字が大書刻印されていたというが、合併後はさすがに「飯田市立」という平凡な肩書き文字に差し替えられた。この町の人々の青年会図書館に対する思い入れの大きさに感服させられる話しではないか。
 昭和60年に現在の図書館を建てた上郷町は、翌年上郷小学校図書室の司書であった下沢洋子氏を招聘、下沢氏は62年4月に図書館長となり以来ずっと館長をされている。長野県下では、図書館員であれば一度はその名を聞くであろうという、児童サービスのリーダーである。飯田市立図書館は、児童サービスの中心的存在としてこの図書館を位置づけ、職員の養成や児童へのサービスに関心を持つ市民向けの連続講座などもおこなってきた。さきほど、中央図書館の項で紹介したように飯田市の図書館における児童関係のサークルやボランティアは、ほぼこの図書館の主催した講座受講者から生まれたといっても過言ではない。例えば、「おいもの会」は(新宿区立)鶴巻幼稚園での実践活動でその名を知られた市村久子氏を招いての連続講演会の参加者により始まった、現在は市村氏のほか作家や編集者などを年3~4回招聘し、児童書の勉強会を続けている。驚嘆すべきは彼女たち60名ほどのグループは、各自が年間12,000円もの会費をおさめてこの学習活動を続けているということである。曰く、東京まで公演を聴きに行くことを考えると、12,000円では往復運賃にも足りないが、この会費のおかげで年間数回も講師を呼びじっくり勉強することができるのだというのである。この不羈の精神に「下伊那女子青年部」の血脈が太く彼女らの中に息づいていると感じるのは、私だけであろうか。

 学ぶべきは、図書館内での児童サービスは職員が責任を持って行うこと、学校などへの読み聞かせなど地域的な展開においてボランティアの活動の場を考えるという発想である。図書館はボランティアの育成支援ための講座を設けている。25名の定員はいつも参加希望者がオーバーするそうで、優先順位としては全会参加できることを上げているというのである。講師は、下沢館長はじめ市立図書館の職員がつとめる。
このような図書館では、選書をどのように行っているのかを聞いてみた。児童書は、見計らいを重視しているとのことで、これらを担当している「南信こどもの友社」や松本市にある腰高一夫氏経営の「ちいさいおうち書店」などの名をきくにつけ、子どもの読書文化を支える方々の地方的なにおいに接する思いがした。

≪青年会図書館≫
 上郷図書館の書庫には、上郷村青年会の残した活動の記録が丁寧に保存されている。青年会記録は、総務部、図書部、文化部などの各部に分けて保存してあった。大正14年ごろから戦後にかけて、おそらく遺漏することなくきちんと記録され保存状態は非常に良好であった。戦後の一時期のものは紙質が悪く劣化が激しいゆえ触るのもはばかられるが、私がかねがね興味を持つ大正期や昭和初期のものは、当時のままの姿で保存されているといってよい。紙質も思いのほかいいと思った。そして、年々執筆するものが引き継がれ、従って年によって記録者が変わるのであるが、ある年は金釘流のような字体で書かれたものもあれば、ある年のものは隆々として祐筆家が書いたのではないかと見まがうばかりに達筆なものにもであった。
 図書館を辞して、車で野底山の旧入会地を見に行った。途中黒田地区の下諏訪神社によることができた。ここは、黒田人形芝居が年に一度興行されるところである。境内にある人形公演専用の舞台については、先ほど述べた。
 野底山(のそこやま)の入会地は山全体が飯田市域の郷土環境保全地域に指定され、森林公園として整備されていた。青少年の家やキャンプ場もあり、飯田市民の憩いの場となっている。上郷青年会は1922(大正11)年上郷小学校の一部を間借りする形で青年会文庫を立ち上げる、そして文庫運営費用と図書館建設資金を捻出するため、当時この山に入り粗朶や枯れ枝を集めこれを村に売り、その費用で図書部の資料を買い、上野の帝国図書館にまで行って助言を仰ぎ、購入した資料をみんなで廻し読みを行ったり、読み聞かせの読書会を行ったり、時には講師を招聘し講座を開催したりした。
 その後この青年たちは、自ら積み立てた資金を元に県下でも有数の規模と利用を誇る青年会立図書館(青年開館併設)を1936(昭和11)年開設し、自主運営を貫いた。戦時下、村の青年の多くが戦争へと駆り出される中で、1941(昭和16)年小学校に運営を委ねたが、女性青年部員と若き小学教師たちがその伝統を引き継ぎ、図書館を守り抜いたのである。戦時下にあっても苦節の中にこれを運営しぬいた青年たちが、70年以上の時を経てよく整備されたこの美林を見たときの感慨の重さに私もしばし浸ることとした。
 
 図書館は民衆が開くものである-昭和61年に上郷村図書館を開館したとき、この町の幹部が何故「上郷村立」ではなく「上郷青年会」と門柱に書したのか、上郷青年会図書館の苦難に満ちた輝ける歴史を顧ればその答えは自ずと導かれるはずである。図書館で学び、それでも飽き足らず先覚の師に教えを請い、実践しそれを広め、さらに自らを深めるために学習する、そして実践する。
 やがて時を経て、そのような青年たちこそが地域のリーダーとなり、あるものは政治の世界に、あるものは文学の世界に、あるものは芸能の世界に、あるものは教育に、あるものは農の世界をきわめていくのである。
 上郷村の青年が記録した活動は日本の社会教育と図書館活動の原点になっているといっても過言ではないだろう、と私は言いたい。

 全国には多くの優れた活動を残した青年会活動がある。静岡県庵原村の青年たちは、鉄筋コンクリート3階建ての中学校を自分たちの力で立て、奨学金を積み立て後輩たちの勉学を援助した。倉敷市の青年会は木綿紡績の会社を立ち上げ、病院や労働問題・労働科学の研究所を立て、日本の労働者の福利厚生に深く貢献した。岡山県柏谷(現岡山市)の青年たちは、明治期においてフランスの農業を原典から学習しマスカットの温室栽培を日本で始めて成功させ岡山の特産にした。明治後期から大正期、昭和前期にかけての青年会の活動には、地方から日本の産業、文化、教育を突き動かすほどの力を持った例が生まれた。(『日本社会教育発達史』)
 下伊那地方の青年たちも、他の地方の青年に負けず学習にいそしんだし、彼らは非常に正確に自分たちの活動を記録し、それを後輩たちに引き継ぎ、保存した。かつ、これからが大事なことなのだけれども、それらを保証するための図書館を持ち、その図書館を大切に守りぬき従ってそのすべてを残した、ということである。このことのために、我々は当時の青年会の活動をつぶさに研究することが可能となったのである。結果、下伊那の青年会活動は社会教育史、図書館史を含めての典型として、今日多くの研究者をひきつけてやまないのである。
 我々は、この青年たちにこそ図書館の最高栄誉たる金メダルをささげたいものである。
(この項終わり)



付記:
 以上の論稿は飯田市立中央図書館・情報サービス係長加藤みゆき氏及び上郷図書館長下沢洋子氏へのインタビュー(2008年9月20日)と、いただいた諸資料を参考にして西野の責任にて執筆しました。なお、図書館や事業、その他人物の評価についてはすべて西野が独断にて行ったものであり、インタビューにお応えいただいた内容とは別のものであることを念のためお断り申し上げます。
調査にご協力いただいた、加藤様、下沢様はじめ多くの図書館員の皆様に心より感謝申し上げます。   

参考文献:

<飯田市立図書館関係>
『図書館概要 平成20年度』(飯田市立図書館 2008)
『長野県の歴史散歩 』(長野県高等学校歴史研究会 山川出版 1975)
『柳田学の地平線-信州伊那谷と常民大学』(後藤総一郎 信濃毎日新聞社 2000)
『地域民衆史ノート-信州の民権・普選運動』(上條宏之 銀河書房 1977)
『人形芝居の里』(唐木孝治 信濃毎日新聞社 1998)
『みんなとだから読めた!-聞き書きによる飯田下伊那地方の読書会の歴史-』
(飯伊婦人文庫 2007)
『みんなで読もう-飯伊婦人文庫40年史-』(飯伊婦人文庫 1997)
「信州随筆」『柳田国男全集 24』(柳田国男 筑摩書房 1990)
 
「飯田市立図書館」http://library.city.iida.nagano.jp/ 2008.10.1
「飯田市美術博物館」http://www.iida-museum.org/ 2008.10.1
「黒田人形浄瑠璃伝承館」
 http://www.city.iida.nagano.jp/puppet/sisetsu/kuroda.html 2008.10.1
「いいだ人形劇フェスタ公式ホームページ」http://www.iida-puppet.com/ 2008.10.1
「霜月祭り-長野県最南端の秘湯と秘境の里・信州遠山郷」
  http://www.tohyamago.com/simotuki/ 2008.10.2
「遠山祭り(霜月祭り)の伝承」
 http://nagoya.cool.ne.jp/matsunari/Mwm/00_14/otogi.htm 2008.10.2 


<上郷図書館関係>
『知恵のなる気を育てる-信州上郷図書館物語』(是枝英子 大月書店 1983)
『公共図書館サービス・運動の歴史 1 -そのルーツから戦後にかけて』
       (奥泉和久他 日本図書館協会 2006)
『自由大学運動と現代-自由大学運動六〇周年集会報告書』
(自由大学研究会 1983)
『下伊那青年運動史-長野県下伊那郡青年団の五十年』
(同編集委員会 国土社 1960)
『日本社会教育発達史-歴史の中で「教育」を考える』(増補改訂版)
                             (居村栄 明治図書 1988)

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