2010年6月7日月曜日

イーマールのこころ-沖縄の図書館を巡って

はじめに
 沖縄では、古くから沖縄人の心を象徴するといわれている言葉があるそうである「イーマールー精神」(協働・互助の精神)や「イチャリバ チョーデーの精神」(人類皆兄弟の精神)がそれであるという。沖縄には集落ごとに作られた字公民館あるいは集落公民館(法的には公民館類似施設)が伝統的に発達してきた。現在900館近くに上る公民館のうち公立公民館(多くは中央公民館)は40であり、その他は集落公民館であると考えられている。(『民衆と社会教育』)
 司馬遼太郎は『この国のかたち』で、鹿児島・薩摩藩における「郷中(ごうちゅう)」と呼ばれる独特の青年組織の働きを分析し、幕末の薩摩藩における草莽の志士たちにおける藩内での西郷隆盛の独特の吸引力の淵源について、その因を「郷中」との関係で述べている。そして、この「郷中」は台湾の少数民族から日本の西日本一帯にかけて伝統として引き継がれた民俗的文化ともいえる「若衆宿」を藩の士族政府内の伝統として改変、継承たものだと分析している。沖縄における集落(字)公民館の発達はこの「若衆宿」がこの島において公認された結果の産物ではないかと、私は想像をたくましくしている。
 
 1972年の沖縄の本土復帰までの間、戦後の社会教育と図書館の公的施設は、5つの琉米文化会館(知念<後に那覇>、石川、名護、宮古、石垣)において行われたといっても過言ではないであろう。そして、会館の主柱的活動も図書館に置かれていたといっても過言ではない、というのが私の感想である。
 日曜開館、夜9時半までの開館、貸出しの無制限・2週間、本ばかりではなく雑誌、新聞、レコード・フィルム、紙芝居の収集にも力を入れた。会館で直接島民へのサービスに当たった職員は、現地で雇用された日本人であった(1958年の時点で最高時5館全体で68名の職員が雇用された)。彼らは、特に小学生から若者層に対する利用を積極的に図った。移動図書館や巡回文庫の館外サービスに努め、行事部(社会教育)と連携して16ミリフィルム映写会を頻繁に開き、図書館週間・読書週間には行事を積極的に行い、公民館や学校図書館への配本支援を行っている。さらに、留置場やハンセン氏病治療施設への配本サービスにも積極的だったことは特筆すべきであろう。
 設立趣旨から押してアメリカ式民主主義のプロパガンダおよび反共主義の砦としての出先機関という基本的性格はあるものの、多くの沖縄の青少年に図書館に対する積極的な印象を植え付けた。

≪旧具志川村における図書館活動≫
 琉米文化会館の行った図書館サービスの残像と集落(字)公民館における青年部活動が、マッチングしそれが公立公民館(中央公民館)の設立さらには図書館の設立運動へと発展していった典型例が、具志川市における活動であるといえよう。1959年具志川村青年連合会文庫が設立される、書架2台、蔵書250冊からのささやかな出発であった。これは、村おこしの拠点として設立された字公民館内に作られた。
 やがて、青年会の教養部が中心になって村役場内に図書室をつくり、司書を配置した。さらに教育事務所の建物を譲り受け、これを村公民館図書室として展開していく。この図書室は、25ある行政区のうち集落(字)公民館のある20の地区に村公民館の図書を巡回させる「巡回文庫」サービスを行うようになる。巡回文庫は1回50冊の図書をセットし、村のワゴン車で毎月定例の巡回日に順々に字公民館を回るというシステムである。一方、村公民館図書室の書架も開架式とし自由に閲覧可能とした。
 村公民館は村から市への昇格に伴い中央公民館となり、図書室は自前の自動車図書館「ひまわり号」で市内各所を巡回するようになる。そして、市制20周年を契機にこれらの活動が認められ市立図書館設立への大事業へとつながっていくのである。
 具志川市は、やがて近隣の石川市、勝連町と合併しうるま市となるが、中央図書館は旧具志川市の図書館である。ちなみに、石川市には復帰前まで琉米文化会館が置かれていた。米民政府の直接的サービスを受けられた旧石川市を横目で見ながら、具志川村青年部の若者たちは、自らの手で公民館図書室を運営し、やがて図書館として自立させていったのである。*

 図書館設立にあたって、専門的知識をもつ職員が手薄であったため、先行した浦添市立図書館の支援を受け、また日本図書館協会の関係者から公私にわたる助言を仰いでいる。その結果図書館の設計は、鬼頭梓設計事務所が担当し、運営についてもきわめてオーソドックスな運営を行っている。このような経過からして、この図書館における館長および専門職員の計画的雇用こそ、これまでの市民の努力を花開かせるもっとも喫緊の課題であることがうかがい知れる。
 
 これらの経過を『沖縄の図書館』に執筆した玉寄長信氏の次の言葉を読むにつけ、我々は現代の図書館にとって何が本当にかけているものであるのかという命題に思い至るのである。
 日本一の貧乏県下で学校図書館を立ち上げたPTA.パブリックな図書館活動を開始した青年団。ゆたかになったから「心」を求めるのではなく、貧しくても、いやまずしいから、むしろ貧しさを超えるために、「こころ(魂のある知識)」を求めた人びとの存在を忘れたくないものである。当時のことを調べたり、当時の話を聞くたびに、ひしひしと伝わってくるのは地下水のように底流する「知的な餓え」のようなものである。

 生沢淳子によると、石川琉米文化会館は、沖縄中央図書館石川分館の裏手に建設され、広さは450平米、閲覧席80、職員は4名(内司書1名)であった。特筆すべきは、自動車文庫が遠い集落や公民館にまで活動範囲を広げ、映写会、幼稚園のための紙芝居や童話会、30箇所の巡回文庫へのサービス、500冊の本を積んで8箇所の公共団体を巡回し1ヶ月の本の貸し出しを行っている、と記述している。(『沖縄の図書館』)
 石川市の隣村具志川村の青年たちが、琉米文化会館の図書館部の活動を見習いながら、図書館への夢を育んで活動をつづけたことが十分に想像される記述である。

≪図書館法、学校図書館法≫
 沖縄における公立図書館の展開が本土との比較において、著しい遅れをきたした理由を玉城盛松は、沖縄におけるアメリカの占領政策にあることを指摘している。すなわち、社会教育法が、困難な運動の成果であるとはいえ、1958年に沖縄において立法化されたにもかかわらず、「図書館法」の米軍当局による認可が裁可されなかったのは、琉米文化会館の図書館部の宣撫的政策をリードしてきたことへの評価と表裏の関係にあるというのである。(『沖縄の図書館』)

 このことは、占領下において学校図書館法が昭和40年に立法化されていることからも伺える。本土に遅れること10年をこえてではあるが、沖縄においては学校図書館法が図書館法に先んじて成立するのである。学校図書館法の成立は、自治体における学校図書館設立運動に大きな励みとなり、PTAなどを母体とした学校図書館への職員配置が各地で行われるようになる。やがて、PTA雇用職員の公職化が各地で進められるようになり、県教育委員会のモデル校指定施策などの後押しもあって、本土復帰時において沖縄は学校司書配置においては全国に先んじたほぼ全校司書配置を実現した先進県となるのである。
 一方、本土においては「学校図書館法」の成立が沖縄に先んじてあったにもかかわらず、附則2「学校には、・・・当分の間司書教諭を置かないことができる」という条文のために、司書教諭の配置ばかりでなく司書の配置もすこぶる遅れることとなる。
 法律を制定していながら、法律自体が制度の内実化を阻んだ例として後世に語り継がれるべき事例である。一方、法整備が遅れたがために施設の設置が一向に進まなかった沖縄における公共図書館の事例も、大いなる教訓としてこれまた後世に語り継がれるべき事例となるであろう。

 ≪戦後、図書館復興事業≫
 アメリカ占領下においても、日本本土からの読書支援運動は根強く存在したことを忘れてはならない。本土復帰を2年後に控えた1970年、沖縄図書館協会総会に当時日本図書館協会の常務理事であった酒井稊(やすし、元国立国会図書館)が招かれ、その際沖縄の図書館の惨状とも言える現実を見、酒井は翌月の全国図書館大会(廣島大会)で「沖縄に本を送る運動―沖縄図書館界に対する援助アピール」をおこなう。このアピールは大会で採択され、全国から献本運動への賛同を寄せられ、13000冊を超える図書の寄贈が国立国会図書館などを通じて行われた。
 また、国庫補助として昭和38年以降公民館、図書館の図書整備を行う目的で補助金交付が本土復帰まで続けられ、15万冊以上が送付された。また、多くの個人団体が継続的な寄贈を続けた。本土復帰後もこれらの努力は続けられる。財団法人沖縄協会を母体とした「沖縄子ども図書センター」は本土の各地の小学校などを回って寄贈本の収集に努め、沖縄における離島や僻地の学校を中心に配本活動を続け、延べ60万~70万点の資料を配布したという。
 
 新しい県立図書館の設立計画は復帰の翌1973年には全体計画を策定した。その後、総合文化センター建設構想が浮上し、図書館建設は一時挫折の憂き目を見ながらも、1982年国庫補助3億3000万円を含む、総額21億円を越す予算をかけた新県立図書館の建設が実現する。
 当時公立図書館は、県立図書館(本館、宮古、八重垣分館)、琉米文化会館を引き継いだ、平良文化センター、石垣文化会館、那覇市立図書館の他は、那覇市立久茂地(くもじ)分館、名護市立崎山図書館、本部町立図書館、知念村立図書館、渡名喜村立中央図書館(人口500人の島、床面積220平米)だけであった。(崎山図書館は、もとは名護出身の企業家山崎氏が建物と資料を市に寄贈したもの)
 
 自治体における公立図書館がほとんどないともいえる状況での県立図書館は、自治体に替わり通常の図書館サービスを受けられる体制を想定しつつも、将来的にはこれらを支援する活動への転換を図れるよう配慮したものとなった。このような、一見相反する計画目標を立てざるを得なかった背景に、県立図書館に隣接して琉米文化会館の建物と資料を引き継いだ那覇市立図書館の存在があったことは否めないであろう。
 この那覇市立図書館は、実は現在も琉米文化会館の施設をそのまま使用している。建物の1階部分が図書館であり、2階部分は公民館である。いずれの施設も今となっては狭隘を画で書いたような施設ではある。
 那覇市立図書館は1979年から1984年の定年退職まで館長であった外間政彰(ほかませいしょう)時代に、13館図書館構想を計画しこれを市の方針とさせた。外間氏はこれに先立ち、久茂地分館を公民館の一角につくり『市民の図書館』の貸出しを柱とするサービス方針を体現したちまちにして分館の貸出し実績が本館を抜いてしまうという、いまや伝説化した実績をバックに教育委員会を説き伏せ、この構想を認めさせてしまったという。この13館構想の中には、当然新中央図書館建設構想も含まれていたのである。

 那覇市は、この計画を下敷きに現在は8館の図書館でのサービスを行っているが、懸案の新中央図書館はまだまだ先のようだ。現在の中央図書館は、牧志駅前に展開中の「牧志・安里地区市街地再開発地区」の再開発ビルへ近く移転することが決まっている。2階にある中央公民館とセットでの移転であるが、新中央図書館はそれよりさらに数年後?米軍基地返還後の跡地を活用して那覇市の西海岸一体に展開される新都心地区へ、より広い土地を求めて新築することを視野に置いているとの説明を受けた。
県立図書館建設当時のアンビバレントな計画は、多くの自治体で図書館が建設されるに至った今日においては解消されているが、当時においては那覇市をはじめとする県下の図書館事情を汲んでの背景があるとの見方をするのが妥当であろう。

≪沖縄県立図書館の受難≫
 沖縄には、明治・大正期偉大な図書館人がいた。沖縄県に県制がしかれるようになったのは明治42年である(「琉球処分」といわれる沖縄での「廃藩置県」は明治10年)。
 その翌43年に沖縄県立図書館が開館した。蔵書数4500冊余り、職員はわずか3人の図書館であった。この図書館の初代館長は後に「沖縄学の父」といわれた伊波普猷(いはふゆう)であり赴任当時34歳の若さであった。彼をはじめ、歴代の館長は特に郷土資料の収集に力をいれ、沖縄の歴史民俗文化に関するコレクション5000冊を誇るにいたった。
 後に柳宗悦をして「地方的特色ある図書館としては、慥かに日本随一のものであった。どんな沖縄学者も、この図書館を訪れることなくして正しい研究を遂げることはできない」と言わしめたほど、その名は全国にとどろいたのである。(「沖縄の人文」『柳宗悦選集第5巻』)
 民俗学者柳田國男は20年にわたる官僚生活に終止符を打ち民俗学者としての道を歩むと決心したとき、最初に面談に赴いた民俗研究者が当時沖縄県立図書館長をしていた伊波普猷その人であった。彼は、2週間ほど沖縄に滞在し伊波の示唆を受け沖縄各地に足を伸ばしている。帰国後、朝日新聞に「海南小記」を連載し成功を収める。民俗学者としての柳田國男の出発は伊波との交友なくしてはなかったのである。(『柳田國男全集1』)
 それほど、沖縄に関する文献は、完璧に近く、世にも貴重な収集であった。また、伊波の発信力は強烈であった。その後、県立図書館長は真境名安興、島袋全発などの郷土史家に引き継がれる。

 がしかし、宮本の文章は以下のことを伝えている。
その後図書館が郷土資料偏重のため疎まれる存在になったこと、結果沖縄戦ですべての資料が灰燼に帰すことに手立てを講じられなかった、と慨嘆しているのである。これを書かしめた『沖縄の人文』は昭和23年に上梓された。
 伊波自身は柳田の誘いもあり(一説には女性問題を指摘する研究もあるが)、1924(大正13)年館長を辞し沖縄学の創設に献身する。東京の国学院大学に招かれ、戦後を迎えるまで一貫して『おもろさうし』などの沖縄学研究に精力を傾注した。この県立図書館全滅の報に接し、絶望の極みの中で翌々年鬼籍に入るのである。71年の不遇の生涯であった。

 県立図書館(琉球政府図書館)の再建は困難を極めたが、琉米文化会館図書館部の活動を横目に見ながらも困難を極める中、1965年になりようやく「那覇政府立中央図書館」の設立となる。法人東恩納(ひがおんな)文庫からの貴重資料3300点余の移管を受けての開館であった。その後、増築されながらも床面積1800平米、蔵書数30000冊、職員数13名の小所帯であった。県立図書館の本当の意味での再建は本土復帰後10年を経て実現する、1983年であった。
 今日、沖縄県立図書館が郷土資料の収集に特に力をいれ、相当の予算を割いて努力を傾けている背景には、このような歴史の蓄積とそれを失してもなお多くの県人や研究者をしてその亡失を惜しませた、かつての輝かしき郷土資料コレクションへの追慕の精神が生きているからであろうかと思われるのである。例えば、入手可能なものについては、購入または寄贈によるかを問わず保存、閲覧、貸出しの3部を必ず確保するということもそれに当たる。


 次に、筆者が実際に見学した図書館であり現在の沖縄の図書館の現状をある意味では、典型的に示している図書館を紹介したい。

≪浦添市立図書館と沖縄学研究≫
 浦添市立図書館は、沖縄県下において、最初に『市民の図書館』『中小都市における図書館の運営』を体現した図書館といえる。この図書館の開館は、当時「浦添ショック」という電撃的な図書館波及効果を近隣の自治体に与えた。
 1985(昭和60)年開館したこの図書館は、館長以下職員9名、臨時6名、嘱託5名、パート職員13名の体制で運営をしている。資料費1700万円、貸出し36万点(市民当り3.4点)沖縄県内においては、まず第1等の実績を残す図書館である。長崎純心女子短期大学元教授の平湯文夫氏をして、1985年10月に「本土にも例を見ない美しい図書館」「これでもう沖縄全島の図書館づくりのレールは敷かれてしまった」(10月26日毎日新聞西部本社版「文化」欄)とまで言わしめた図書館である。
 具志川市立図書館(うるま市立図書館)職員であった玉寄長信氏は、開館準備が「県内の図書館状況に活を入れた浦添市立図書館ショックの直後の取り組みであった」と回想している。
 
 建物の前面にはガジュマルの大木が図書館の主(ぬし)のように利用者を出迎える。開館当時の写真を見ると図書館のぐるりには緑らしいものはなかったが、現在は「ウッソウとした」という表現がぴたりとあてはまるほどの緑濃い前庭となった。その奥に図書館の玄関がある。生憎と私が訪問した日は、コンピュータのリプレイスによる臨時休館中で図書館内に利用者はいなかったが、玄関前のガジュマルの木陰で数名の学生が読書を楽しんでいた。
 
 開館時、日本図書館協会「建築賞特定賞」を受賞した。この年は第4回目の建築賞であったが、優秀賞は藤沢市総合市民図書館、特定賞は駒ヶ根市立図書館、そして浦添市立図書館であった。
 この図書館を準備するに当たり、当時の浦添市は初度調弁資料費として異例の7,800万円を計上した。それにたいし、自らの米寿のお祝いに当てる予定の費用100万円を図書館に寄付した市民も現れ話題となった。文化を大切にする市の幹部の姿勢に市民が篤志を持って答えたエピソードがある。

 正面入り口とエントランスを中心に、左袖に一般書架室とレファレンス室、右袖に児童室を置く完全分離型設計。この思想は、日野市立中央図書館に通ずるものがある。一般開架室は完全吹き抜けになっており、従ってその天井は2階丈分の高さになる。この部屋の袖部分は大人の身の丈より高い回廊となっていて、壁に沿って書架が配置されこれは多分に公開書庫的な意味を蔵していると私には受け止められた。
 開架書架室は外光の取り入れ方、閲覧席の配置、天井や内壁のデザインなどがよく計算され、かつロココ調を思わせるような重厚にしてシンプルな造作となっており、図書館関係者の間では幾度も写真でお目にかかるほど有名となった光景がこれなのだ。
 私も、薄明かりが手元を照らす閲覧席に座ってみたが、とても心落ち着く気分を味わえた。『沖縄の図書館』で、名護正輝氏が開館準備当時の議論に「この図書館は、書遊園をめざす」という意見が野太く支持されたという趣旨のことを書いていたが、この閲覧室にいると「書遊園」とはよく言いえたと思えてくるのである。この環境この雰囲気のなかで、好きな本を紐解いてみる贅をしばし満喫したいものである。

 2階は事務室、沖縄研究室である。沖縄学研究室は、当時の市長の強い希望により1990(平成2)年に開設、現在蔵書20,000点を数える。浦添域内を含む沖縄全土の地誌資料の収集、および移民史に関する資料の編纂にあたる。専任スタッフ3名(内嘱託2名)が置かれ、講座の開催(年5~6回)、県内外からのレファレンスへの対応などにあたるほか、近世日本列島流通関係資料として近世史研究において重要な位置を占める琉球王国評定所文書の校訂を積み重ね、『琉球王国評定所文書』全18巻を上梓している(1998年~2003年)。
 同書は、平成14年沖縄タイムズ出版特別賞を受賞している。担当者のこの研究室の資料収集へのこだわり、学としての沖縄研究事業を牽引しているという自負は並大抵のものではないことを感じる。
 この図書館では、平成元年から『浦添市立図書館紀要』を発行、平成15年まで15号の発行回数を数えるが、平成16年からは、『美術館紀要』が加わり、図書館、文化研究、美術・芸能・工芸、文化行政を網羅した『よのつぢ』*となり、再出発をしている。このように、図書館を含む紀要の発行が継続的に継承されてきていることに、この自治体の文化に対する志の高さを痛感せずにいられない。

*「よのつぢ」とは琉球の歌謡集『おもろさうし』に出てくる古語に因んでいるということである(世間や現実の頂上、最上の意)。『おもろさうし』で思い出したが、柳宗悦氏によれば、沖縄地方の方言が現在においても日本の古語である大和ことばの意味も発音も継承している部分が多く、『おもろさうし』などの研究が進められたことにより、『万葉集』の研究などでこれまでまったく意味の分からなかった部分に大いに光が当てられるにいたった、としている。(『沖縄の人文』)沖縄文献研究が、日本列島の歴史、民俗の淵源を探求する上で重要な地位にあることの一端が理解できよう。

 さて、図書館の購入雑誌数も250以上ある。そして、よく保存されている。この辺にも、沖縄県下における市立図書館の嚆矢としての自負が感じられる。新聞も一般紙、地方紙のほか各政党機関紙もそろっている。
特設コーナーとして先にあげた沖縄学研究室のほか、アメリカ情報コーナーを持つ。
アメリカ情報コーナは浦添市内にあるアメリカ総領事館の協力により平成16年から開設。内容は領事館などからの寄贈資料(1400点)ほか新聞1誌、雑誌11誌が中心となっている。

 活発な館内でのサービスのほか集会活動も、おはなし会(月3~4回ボランティア、毎月1回職員)、人形劇年1回、映画会(夏・春休み中心で10回)、展示会(一般、児童向け毎月)講座年2回。演奏会、ジャズコンサート、在留アメリカ人による英語教育セミナーと、誠に盛んである。ブックスタート事業(6回)、学校訪問・施設見学受け入れ(194名)、職場体験・一日図書館員などを展開している。

 自動車文庫「としょまる」は30ステーションを巡回。(巡回頻度月2回巡回)ステーションの内訳は、学校、公民館、団地・公務員宿舎、スーパー駐車場など実にきめ細かい。週5日の巡回日が水曜~日曜日と利用者本意に設定してある。

 これらの事業を分析するだけでも、相当なる教訓を得ることができると思われる。 なお、第5代館長(平成11年4月~12年3月)又吉盛清氏は、図書館員時代に芥川賞作家(ペンネーム、又吉栄喜)となったことで当時話題となった(平成4年、第114回芥川賞、受賞作品『豚の報い』)。現在は、沖縄大学教授のかたわら浦添市立図書館移民史編集委員を歴任している。

 浦添市は、市域の西4分の1ほどを米軍基地が占めている。また、企業誘致が成功し大手企業の立地による固定資産税収入、基地関係助成金などを含め財政的には比較的恵まれているという。平成16年度の財政力指数は、0.71で県内ではトップクラスである。(沖縄県は0.20)
 図書館のある地区は市民会館(てだこホール)、福祉センター、運動公園、美術館などが虔を競う「カルチャーゾーン」と称されている地域である。
 浦添市美術館は、主要幹線道国道330号線沿いにあり、外観デザインは威容を誇っている。この美術館は、平成2年に日本初の漆芸専門美術館・沖縄初の公立美術館として誕生した。設計は、高円宮邸、世田谷美術館などを担当した内井昭蔵氏である。図書館ばかりでなく、社会教育のさまざまな分野に力を入れている様子が窺える。

≪豊見城(とみぐすく)市立中央図書館ー日本一人口の多い村の図書館≫   
 「当時村の基本計画にも載っていなかった図書館の建設が、村長の強い指示で実施に向けて動き出したのは、1993(平成5)年であった。図書館の素地もなかった村に3年後には立派な中央図書館が造られることとなった。・・・私たちは、何から手を付けていけばよいのか皆目見当がつかなかった」と山内一美が後に書いている(『沖縄の図書館』)ように、この図書館の建設は当時の村長の強いリーダーシップのもとに建てられた。
 先例としては、具志川、宜野湾、浦添、石垣などの図書館がすでにできており、学ぶべき成果を残していた。しかし、これらの図書館はみな市立図書館である。村立図書館としては、近隣の知念村立図書館があるにはあるが、300平米前後の図書館である。首長が目指す図書館は市立図書館に比肩できるほどの規模であった。しかも、村立図書館でありながら中央図書館という名を冠しているのである。他の図書館をも視野に入れてなくば、中央という名称は出てこない。(渡名喜村立中央図書館もあるが、人口500人の島の200平米ほどの図書館であり、ここで中央とつけるのは気宇広大すぎるともいおうか)
 
 はたして、開館した1996(平成8)年度の資料費が8800万円も査定されたということもあって、開館して1年目で住民当たりの貸出しが10冊を超えた日本一の村立図書館として当時図書館界でも話題となった。当初準備要員の不足が危惧されたが、開館時の職員体制は5名、嘱託2名、臨時職員6名が配置された。(現在正規職員は2名、内司書1名、他の多くは嘱託、臨時雇用)
 村として当時これだけの手当てが何故できたかいう疑問もわくが、調べてみると当時の豊見城村は村としては日本で1、2を争うほどの人口を抱えており、平成14年には村からにいきなり市に昇格している。現在の人口は、5万人を悠に超える。つまり、当時から市となるべくそれだけの人口を抱えていたのである。当時の村長にしてみれば、財政的な裏づけを計算しての決断であったと想像される。平成18年には開館10周年を迎え、大いに記念行事を行い、其の甲斐あってか、一時の盛況振りから比べると停滞気味の利用状況にやや光明が見えてきた気配がある。

 現在の館長當間氏は、数年前図書館の指定管理制度適用を批判する立場で、市民の力をよりよく活用した図書館運営のあり様を提案し、それが認められるところとなり市からの依頼を請け館長(嘱託)をされている。市民との連携、学校との連携にも意欲を燃やし活躍しておられる。(図書館運営を支える主柱が嘱託契約の司書であるという現状から、通常5年の雇い止めを延長した特別措置を市に認めさせている)

 前述の、10周年記念行事の内容を見れば、市民参加に根ざした図書館の姿が、眩しいように伝わってくる。
  
☆ 慰霊の日関連行事 6月16日~29日
平和を考える朗読の集い 40名
ワークショップ INTER SPACE 「沖縄戦で亡くした人の数 飛行機をつくる」 50名
市内中学生による「戦争と子どもたち」作品展示
☆ 図書館まつり 11月12日(日)
9:30 オープニング 市青年会によるエイサー/くす玉割り/表彰、図書寄贈式
10:00 バーブティー・サービス、ハーブ苗&ラン苗の無料配布
 「しおり」(押し花)配布(カウンター)
14:00~16:00 記念講演『図書館へ行こう』(琉球放送、土方浄氏) 80名
<展示の部>
儀間比呂志原画展
小学生による作品展「未来の図書館」

≪図書館のDNA≫-「イーマールー」と「イチャリバ チョーデー」
 伊波普猷は県立図書館長時代子どもたちのためにストーリーテリングを行い、あまりの好評のため自宅に「子ども会」を移動し協力者を得てイベントを続けたというエピソードを残している。当時の図書館は、多くの子どもたちを受け要れるだけのスペースを持たなかったのだ。(『民衆と社会教育』)
 喜納勝代(きのうかつよ)は、このような伊波の子どもへのまなざしをもつ遺伝子を継承した一人であった。彼女は国際通り裏という那覇でも一等地の地区に、20平米足らずではあるが私設の文庫を開設する、1976年10月である。お菓子やコーヒーをみんなが持ち寄り、時には講演会や演奏会も催す明るい「文芸サロン」的な雰囲気を持った文庫となった。厳しい財政的なやりくりのなか、南アフリカや南米の子どもたちへの支援も行った。まるで「イーマールー」(協働・互助)「イチャリバ チョーデー」(人類皆兄弟)を人生そのものとしているような人である。その後、外間政彰がこの地区に久茂地分館を開くのは1981年である。喜納の活動に報いようとする外間の執念のようなものを感じないではない。

 彼女の活動はやがて、地元新聞の注目するところとなり、記者との交流の中で彼女の脳裏に沖縄の私設図書室や文庫を回り、それをみんなに紹介してみたいという欲望が沸く。当初、3ヶ月程度で完結する予定で始まった『琉球新報』の「町の文庫 村の図書館」という週1回の特集は、その後124回を重ね、3年間も継続することとなる。
 取材も執筆も彼女がひとりで行ったこのシリーズは、多くの読者を獲得し沖縄の図書館建設の機運を呼び覚ます起爆剤となった。シリーズは1983年から1986年まで満3年続けられた。個人文庫や図書館はもちろんであるが、児童館や公民館図書室、企業資料室、議会図書室、さらには浦安市図書館にも関心の目は向けられた。


 以下に、やはり『沖縄の図書館』で紹介された 「イーマールー」(協働・互助)「イチャリバ チョーデー」を地で行くような文庫の紹介を行いたい。

☆いぜな文庫
 本部町出身の伊是名(いぜな)夫妻が、教職を退官後1996年、自宅を建て増し20平米ほどの図書室をつくった。3000冊の本と閲覧席を設け開いた文庫。開館は朝7時から閉館は利用者がいなくなるまで。年中無休である。子どもの試験前には自宅部分まで開放し、夏休みは対応できかねるほどの利用があるという。まるで、松下村塾を思わせるような文庫ではないか。

☆人文図書館
 後に沖縄国際大学教授となった喜久川宏氏が、1960年ごろ(30歳前後)から約20年間那覇市内に開いた私設図書館。
 学生時代やアメリカ留学時代に収集した資料や民政府や県職員時代を通じて収集した人文関係資料5000冊を公開。なんと職業を持ちながらの図書館開館である。利用時間は毎週月~金の夕刻2時間。喜久川氏本人が講師となって、講座やゼミも開催した。喜久川宏氏自身は、留学後琉球政府通商産業局長、沖縄県企画部長、県観光開発公社専務理事などを歴任した。
 大江健三郎は、この人文図書館を見学したのであろうか。「ふたたび戦後体験とは何か」というエッセイの中で、この図書館をとりあげている。時期から察して『沖縄ノート』取材中のことであろうと思われる。
 大江は、戦後民主主義教育を受けた精神の流れが自分の思想の根となっていること、そんな自身を正直に語ることにより人々にそれを見せ続けるそんな生き方をしたいとのべながら、私蔵資料の公開(図書館)という表現手段を用い、若き青年時代沖縄本島と宮古地区との教育格差に抗し立ち上がった宮古人の精神を持続し表現しつづけている喜久川氏へ、エールをおくっているのだ。(『持続する志』)
 (この項、終了)


付記:
 この論稿は、以下の方々へのインタビューと参考文献などを基に西野の責任において、
纏めたものです。文中における、図書館及び活動、人物の評価については西野の独断によるものであることを念のため申し添えておきます。
 今回図書館を巡る調査に快くお応えいただきました方々に、この場をお借りして心よりの御礼を申し上げます。

訪問機関(訪問順):
豊見城市立中央図書館(當間美智子館長)
沖縄県立図書館(平安名栄喜館長、垣花副参事、玉木班長、宮城班長)
那覇市立中央図書館(森田浩次館長、天久主査)
うるま市立図書館(伊波正和館長、西平係長)
浦添市立図書館(津波清館長、森田係長)
参考文献: 
『沖縄県立図書館要覧 平成19年度』(沖縄県立図書館 2007)
「沖縄の人文」『柳宗悦選集第5巻』(春秋社 1980)
『沖縄の図書館-戦後55年の軌跡』(同編集委員会 教育資料出版会 2000)
『おきなわの社会教育-自治・文化・地域おこし』
(小林文人・島袋正敏 エイデル研究所 2002)
『民衆と社会教育-戦後沖縄社会教育史研究』
(小林文人・平良研一 エイデル研究所 1988)
『沖縄の図書館と図書館人』(山田勉 沖縄図書館史研究会 1990)
『街道をゆく 6 -沖縄・先島への道』(司馬遼太郎 朝日文庫 1978)
『沖縄の歴史と文化』(外間守善 中公新書 1978)
『柳田國男全集 1・解説』(ちくま文庫 1989)
『持続する志』(大江健三郎 文藝春秋 1968)
『浦添市立図書館紀要 No.1』(浦添市立図書館紀要 1989)
『よのつぢ 浦添市文化部紀要』創刊号
(浦添市立図書館沖縄学研究所 浦添市教育委員会 2005)
『豊見城市立中央図書館報(開館10周年記念行事報告』第2号
(豊見城市立中央図書館 2007)
『うるま市立図書館報』第3号(うるま市立中央図書館 2007)
『館報 2007』(那覇市立中欧図書館 2007)

「沖縄県立図書館」  http://library.city.urasoe.lg.jp/okinawa/okicon.htm  2008.10.3
「浦添市立図書館沖縄学研究室」
http://library.city.urasoe.lg.jp/okinawa/okicon.htm  2008.10.3
「浦添市美術館」http://www.city.urasoe.lg.jp/art/  2008.10.3
「沖縄県学校図書館雇用調査」
http://www.okiu.ac.jp/sogobunka/nihonbunka/syamaguchi/koyouchosa.pdf 2008.10.3

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