2010年6月7日月曜日

市民が作り育てた図書館/伊万里市民図書館

伊万里市民図書館
2008年4月27日(日)午前

諫早市立図書館とたらみ図書館

2008年4月26日(土)午後
対応:平田館長、古川副館長
諫早市図書館の揺籃期は明治期日本を代表する歌人、ハンセン病を得た後も文学活動を貫いた野口寧斎が、地元の有志とともに明治37年に創設した諫早文庫がある。
市民要望などを受け、市民センターの一部を使用していた図書館を、平成13年現在の地に新設移転した(述べ床面積7405平米)。
平成17年近隣5町と合併し、多良美(たらみ)図書館(3339平米)、森山町立図書館(1893平米)が改めて市立図書館となる。他に、西諫早図書館(726平米)、高来図書室、小長井図書室、飯盛図書室。公民館図書室としては8箇所。自動車文庫は、多良見とあわせ2台所有。どんぐり号は4000冊積載可能。施設単位の巡回を、主に月1回の配本と学期に1回の配本(保育所)を組み合わせてまわっている(30箇所)。図書館管理システムは18年1月に完成、インターネット予約を開始している。また、7館を一日1巡回配本車が回っている。

地上2F、地下1階。1Fが事務室、開架部分。中央サービスデスクを囲んで、一般、児童開架フロアーがこれを囲むようにしてある。一般開架室は吹き抜け(柱がない)構造で証明も自然証明。他に、伊藤静雄、野呂邦暢を記念するコーナー、ビジネス情報コーナー、子どもの文化の研究コーナーなどがある。
2Fは、視聴覚ホール、集会室、学習創作室、和室、ボランティア室、郷土史料室など集会機能。
他に視聴覚ライブラリーを持つ。嘱託1以外は、図書館が兼務。地下にBM機能、駐車スペース90台を用意する。
図書館長は嘱託館長であるが6年目(名誉館長として市川森一氏を推戴)、他の館長も嘱託。職員12名(司書6名)嘱託12名、臨時7名の体制。正規1:非正規2の体制。
蔵書24万点、貸出し56万点。財政的な特色としては、図書購入基金として市民の寄付金など3億円がプールされており、適宜活用し資料費の漸減に歯止めをかけている。

市民要望を受けた図書館を意識した取り組み方として、近くの商店街との連携交流を意識している。図書館利用者団体連絡協議会を結成し、図書館フェスティバルを毎年開催している。参加団体として図書館友の会、読書会、ボランティアの会、絵本の会、学校図書館ボランティア<心の種>。また、市川名誉館長がらみの企画として、シナリオ講座を定期開催し、地元のFMでも放送している。

文化事業として、年10回の図書館講座、年4回のシナリオ講座、子どもの時間(月2回)同012(月1回)、絵本原画展、講演会、手作り絵本教室など。
共通事業として、19年4月よりブックスタート事業を行っている。乳幼児健診時の読み聞かせの説明と実演などを行う。(毎月)

集会機能について、諫早市の図書館の特色として集会機能を併せ持つところが多いことから、会議室などの使用については有料化を図っている。時間貸しであり会議室、和室などは1時間300円程度(冷暖房費含む)。視聴覚ホールは時間1,500円程度となっている。
法17条との関係で疑問なしとはしないが、図書館関係団体に対しては無料の原則を貫かれるべきと思われる。


諫早市立たらみ図書館
4月26日午後 対応:松永館長、相良裕主任

1 なぜ、たらみ図書館なのか
小郡図書館の永利氏の紹介もあり、どうしても見学しておこうと思っていたところであるが、大変参考となった図書館であった。平成17年に1市5町が合併し、多良見町立図書館が諫早市立たらみ図書館となる。森山町立図書館も同様である。たらみ図書館は町の中心からは外れた海に近接した場所に位置する。近くに市立体育館がある。
職員は、正規5名うち有資格2名。13名が嘱託職員。蔵書10万冊。貸出し38万点。
1Fが開架スペースと事務室、BMスペース、喫茶室、一部会議室。2Fが開架書庫、集会機能。  
面積は3340平米。地上2階建。建物の設計管理を、プロポーザル方式での選考で寺田・大塚・小林計画同人が担当した。寺田氏は、伊万里図書館の設計責任者である。

2 図書館づくりのコンセプトは
設計協議プロジェクトや図書館作りフォーラムなどで徹底的な市民参加を採用した図書館作りを行う。特色として、図書館本体部分の書架は展示スペースを随所に織り交ぜた前頭葉刺激装置に満ちた仕掛けを作った。これは、伊万里市立図書館で採用したものをさらに進化させている。
総合カウンター以外に、ヤングアダルト・児童コーナーおよび郷土・行政コーナー付近に計2箇所の相談カウンターを設ける。
ヤングアダルトコーナーを思い切り広く取り、彼らの集いの場を与えている。貝のお話室、ヤングアダルトでのペイロン船展示、子どもコーナーの紙芝居書架をペイロン船に変形、など海のイメージをふんだんに盛り込んだ設計を行う。随所にある小読書スペースを作り楽しい読書へのいざないを行っている。
288人収容可能な舞台付視聴覚室(海のホール)、フリー読書スペース、静の広場(野外読書コーナー)、動の広場(入り口前のスペース、イベントなどの場所確保)会議室、和室、研修室、防音付講座室、野外スペース、喫茶コーナー、談話コーナー、展示回廊など社会教育的な要素や考えを取り入れた人と人の出会いの場をふんだんに設けている。また外側概観は、海の回廊(入り口へのいざない)などなど、これまでの寺田ワールドの集大成とも言える水準を確保している。
ちなみに、図書館全体のキャッチフレーズは「海からの贈り物」である。

3 たらみ図書館の事業展開
このような、コンセプトを持った図書館のイメージを具現化するものとして、職員やボランティアによるイベントがある。
貝のお話し室での幼児向けお話、海のホールでのストーリー・テリングや、高校生や大学生による演劇やミュージカル、屋上野外劇場(海と星の照らす劇場)での夜のお話会やお月見会、動の広場でのミニコンサート(毎月1回)、展示回廊での展示会・企画展、読書会、映画会など実に盛りだくさんの催しである。ボランティア養成講座は4回の講座を毎年組んでいる。
子ども読書の日(4月23日)は図書館祭り、開館記念日(11月3日)にはマリオネット劇場、図書館クイズ、フリーマーケット、触合いコンサートなどが行われる。

2)ブックスタート事業として、乳児相談と1歳半検診時にブックスタートパックをわたしている(毎月実施)、かつ事業としては、赤ちゃん、幼児、子ども向け以外に毎月1回プレママコースのお話し会を行っている。夏休みには前後7回にわたり子ども向け特別企画を組み、手作り会、映画界、図書館を使った宿題コンクールなどを行っている。
一方、研修室、講座室などの集会機能を持ったスペースは、図書館関係団体に限らず貸し出しを行っている。(一部有料)
3)自動車文庫は、30ポイントで貸し出しサービスを行っている。

4)学校との連携事業として、学級文庫への貸出しや自動車での巡回のほか、お話しの出前(15回)、ブックトーク(2回)、担当者連絡会議などを行っている。

久留米広域圏内協働利用協定と小郡市立図書館

小郡市立図書館
4月27日(日)午後
対応:永利和則館長

図書館は、(財)小郡市公園ふれあい公社に委託(指定管理)されている。同建物内に市文化会館(ホール)があり、図書館長が館長を兼務している。図書館施設には野田卯太郎文学資料館が併設されており、図書館は建物全体の1F一部に押し込めれた格好となっている。
2Fの一部が図書館書庫。職員は市からの派遣職員4名、それ以外は財団雇用の非常勤職員(9名)と財団常勤臨時職員(3名)よりなる(ほとんどは有資格者)。

小郡図書館の特色の第1は学校図書館との連携であろう。小学校8校、中学校5校、県立高校2校、専門学校2校に対し、毎週2回(水、金)巡回車を廻し図書館への要望のある資料や、学校同士の資料を配本巡回している。
図書館は、学校図書館支援センター機能を持ち専任2名(嘱託職員)を配置し、また調べ学習用などに1600冊の支援用資料を所蔵する。そのほかにBMが全小中学校にサービスを行っている。
学校には司書が配置(専任は2名)されており、図書館のオンライン端末を使って検索し電話ファックスメールなどで図書館に申し入れる。そのほか、学期ごとに学校側と図書館側で調整会議を持っている。学校司書と共同で「調べ学習資料集」などの各種ブックリストの作成も行っている。

次に興味深いのは、「久留米広域圏内11市町」共同利用協定と、福岡と佐賀の圏域を越えた共同貸出協定である。
また市内6箇所に返却ポストを設置しており、学校への巡回もこのサイクルの中に含めて行っている、

ブックスタートも平成17年から開始している。10ヶ月検診の際母親に対し、保健相談などのプログラム終了後に、ブックスタート推進員6名(職員3、ボランティア3)が対応し、実技指導も行っている。図書館、子育て支援センターの案内のあと、お話会のあと絵本を2冊づつ(6冊の中から)もらえるシステム。予算は図書館に査定されている。
2005年「母親の乳幼児養育に関する調査-ブックスタート事業とのかかわりから」という研究論文が生まれた(福岡女学院大学)。
最後にBMを活用し、市立病院に団体貸し出しで本の貸し出しを行っていることも参考となろうか。

椋鳩十今だ死せずー鹿児島県立図書館

鹿児島県立図書館
4月25日(金)午後
対応:津田修造館長
図書館訪問の目的は、「母と子の20分間読書運動」のその後を知るためである。久保田彦穂(椋鳩十)が館長時代の図書館は、県立文学館となり館長室はそのまま保存されているという。 
久保田彦穂が鹿児島県立図書館長になったのは昭和23年、43歳の時である。彼は、昭和41年まで図書館長を歴任するわけであるから、実に足掛け18年もの館図書館長を努めたこととなる。退職後は鹿児島女子短期大学大学の教授(児童文学、図書館)として教鞭をふるった。久保田のあとを継いだのが、高士与一(たかしよいち)である。
図書館長としての経歴は長いが基本的には、文学をよくする国語教師であったと思う。人間教育の手段として読書運動を位置づけた根源に何があったのが、なぜPTA読書ではなく母とこの読書だったのか、ということに私の問題意識がある。  

『読書運動』(叶沢清介編、社団法人日本図書館協会、1974)によれば、鹿児島県立図書館の読書運動における「農業文庫」は本を利用する型の読書形態、「母とこの20分間読書」は「本を楽しむ型」の読書形態だという。1963年当時鹿児島県内外には5000をこす読書グループがあったとされる。また、県立図書館は館内利用者のための予算に3倍する予算を充当して、市町村図書館や公民館図書部を通じてこれらのグループのために予算を充当した(間接方式)。
各種の参考資料、講師の斡旋、図書館間の資料の相互貸借などを積極的に行う(共同経営方式)、各種機関の活用、専門家やボランティアの積極的な助力(千手観音方式)などを縦糸としてこの運動を展開したとされる。(参考資料:「鹿児島県立図書館の館外活動のあり方」椋鳩十『図書館雑誌』1963年9月、ならびに「立体的読書活動」『鹿児島県読書活動調査報告』1962年)
昭和30年代の読書運動として、概ね4つほどの読書運動体があった。長野県のPTA母親文庫、 滋賀県の「明日からの課程を明るくするための本を読むお母さんの運動」高地市民図書館の運動(団体貸出し)、そして「母子20分読書」運動である。これらの運動は、お互いがお互いを意識したわけでもなくいわば自然発生的に生まれてきた。そしてどの運動にも共通しているのが、母親と子どもを主な対象としていること、公民館図書部や生活改善運動と結びついた運動であったことである。戦後民主主義思想の普及、女性解放の思潮を農村にも広げようとする本能的な同木津kwに乗った読書運動であったといえようか。そして、県立図書館や市民図書館の弱体化を記に財政的な基盤を奪われ衰退していった。まt、承和40年代以降、農村経済事態の急激な崩壊かとともにこれらの運動は急速に影響力を牛待っていったのではないだろうか。

私の関心は、このような地方における生活環境の変化の中で「母子20分読書」運動がどのような変遷を今日まで辿ったのか、または衰退していったのか。

注目したいのは、久保田が在籍していた昭和39年に「母子20分読書」運動を支える側面援助的正確が濃厚であった「心に火をたく献本運動」(実質的な献金運動)が3年間の期限を終わるとともに久保田が館長を退き、その後に「幼児に本を読んであげましょう」運動が開始されていることである。久保田のあとを引き継いだ館長は、新納教義であった。新納は昭和48年10月まで、館長職にとどまり児童室の充実や鹿児島方言などの収録を始める事業を着手するが、心に火をたく・・は件本運動とは証しているが、脆弱化した予算を補うための穴埋め的な性格をたぶんに持っていたのではないかと思われるのである
「母子20分読書」との違いは対象が小学生から就学前年齢に下げられていること、母は子の読書を聞く立場から子に読み聞かせする立場に逆転するのである。主体が子から親に転化している。さらに、この読書運動は平成13年「絵本による子育て支援プロジェクト事業」(3ヵ年)―自ら本に手を伸ばす子ども育成事業―へと発展していくこととなる。
久保田の描いた「館内利用者のための予算に3倍する予算を充当して」という思い切った予算の充当策と図書館や公民館を通じての間接方式、専門家やボランティアなどによる決め細やかな支援体制(千手観音方式)は永年にわたって鹿児島県立図書館および県内の図書館に生き残っていた。

筆者が見学を許された範囲の中での感想もそのことを示すいくつかの事実を確認した。
平成15年度まで巡行していた巡回車(自動車図書館)は、50地町村の自治体に対し春夏二回にわたって貸出し文庫を巡回していた。成人図書、児童図書、中学生向け図書、絵本、紙芝居など2000冊程度ををパックングして配本してまわっていた。そのため専任に正規職員2名を配置し、1,100万円円程度の予算を確保していた。複本も10冊まで用意していた。現在巡回用の車は動いていず、宅配便を使って一度に500冊程度の資料を配本している、専任職員も1名、予算も3分の1程度ととなっているが、脈々と続いている読書支援活動なのである。
一方鹿児島市立図書館では『家族ふれあい読み聞かせ教室』『楽しい親子読書教室』『親子読書グループ集会』にくわえ、「椋鳩十児童文学賞」(1等200万円)作品展を行うなど市レベルにおいても読書運動の命脈が受け継がれているようである。

倭王墳に共存する図書館/堺市立図書館

堺市立中央図書館・見学記
2009年2月24日(火)
 堺の町は、仁徳天皇量など天皇陵といわれる巨大古墳の宝庫である。また、中世から近世にかけて自由貿易港として栄え、戦国時代の最新兵器である火縄銃の生産と流通をほぼ独占して、巨万の富を蓄積した。そのような環境から、茶の湯の「天下3宗匠」といわれる千宗久、津田宗及、千利休が現れ茶の道を天下に広めて行く。特に千利休は、侘び茶の道を大成した千家流茶道の開祖として名高い。
 堺市中央図書館がある大仙公園は、あの仁徳天皇陵といわれている巨大古墳に隣接した広大な敷地の一角にある。この公園の中央付近には、壮麗とまではいいえないが優美さを備えたといって過言ではない市立博物館がある。博物館の入り口手前に2棟の茶室があり、その入り口に1対の石造がある。千利休と利休の茶の湯の師匠にあたる武野紹鴎の像である。市立博物館の前にその象徴としての1対の石造を見て、われわれは堺市の市民が最も愛する文化人を見るのである。茶の湯の文化の発祥の地、堺の市民はこのことを最も誇りとしているのだと感ずるのである。千利休の先輩格に当たる千宗久は茶の湯の名人でもあったが、天下一の鉄砲商人でもあった。現代版死の商人である。当時堺の町は、織田信長の庇護の下にあり、一定の自由自治の寛恕の元に、ほぼ独占的な鉄砲商人街を形成していたようだ。まず、日明貿易の集積港として培った国内外の交易に長けた商人が多く住んでいたし、中世から培ってきた鋳造技術を持つ職人集団を近郊に擁していた。また、後背地には良質な綿花の栽培地が広がっていた。(綿花は、火縄の原料となった)
 戦国時代末期に大量に必要とされた良質な鉄砲その必需品である火薬、火縄の材料を注文に応じて大量に調達し、製造販売する条件を日本で最も多く備えていたようだ。さらには、天下人たる織田信長、それを襲った豊臣秀吉、続く徳川家康らの本拠地もいずれも堺に近かった。堺の町は秀吉の時代に自由都市の象徴としての環濠を埋められてしまう。そして千利休も秀吉により殺害(実際には切腹を命じられた)される。その後の、大阪夏の陣で徳川側についた堺衆を天下人となった家康は保護に努めたが、太平の世の到来は鉄砲や大砲の大量生産をもはや必要とせず、その後の鎖国政策と西廻り・東廻りの航路の基点としての大阪が17世紀には天下の台所となり、堺の町を急速に衰退させた。
 千派の湯の道は千利休と関係が深かった大徳寺によった孫の千宗旦が千家を再興し、宗旦の次男・宗守が「武者小路千家官休庵」を、三男・宗佐が「表千家不審庵」を、四男・宗室が「裏千家今日庵」をそれぞれ起こすにいたる。こうして、千利休のとき堺州の茶の湯道は天下の配するところとなり、それを演出した秀吉自身の手により系統をたたれ、京の地において再興されるに至るのである。堺が生んだ交易と茶の湯2大文化は大阪と京都に引き継がれていく。
 幕末に結ばれた日米修交通商条約で幕府は堺・兵庫の開港を提案したが、ハリスの主張を入れ大阪開市、兵庫開港がきまりここでも国際交易都市堺の再興は頓挫する。
堺は、近世に入っても大規模な港の改修工事をつづけ、明治に入って全国に先駆けて官営レンガ工場が、また富岡についで2番目の官営紡績工場がつくられた。1903年の内国勧業博覧会には、当時としては国内最大規模の水族館が誘致され、京阪神位置のリゾートゾーンとして多くの観光客を引き寄せた。堺の町も再興に向け順調に歩みを進めたかに見えたが、先の大戦の際の戦災で旧市街地の大部分を消失した。堺の町の悲劇は続くのである。
 大戦後は臨海工業地帯の造成と工場群の誘致に成功、さらには京阪神地区のベットタウンとして泉北ニュータウンが造成され、重化学工業地帯および京阪神のベットタウンとしての性格を色濃く帯びることとなる。

 堺市立図書館は大正5年市西部の中心街に立てられた。戦災で図書館は燃えるも資料は全焼を免れた。昭和46年に現在の大仙公園内に新館が立てられた。基本設計は大阪市立大学栗原研究室(栗原嘉一郎、後の日本図書館協会施設部会委員長)が担当した。地下3階地上2階、延べ床面積4,600平米と当時としては最も進んだ図書館建築思想と技術により作られた。2階部分には各所に天窓構造が採用され自然光を取り入れられるよう工夫してある。屋根は上から見ると百舌が羽を広げた形をイメージした構図となっているという。(この地区は古くから「百舌」といわれる地名を持った)1階部分には、玄関口ロビーが広く取ってあり、開放感あふれる空間が取られている。基本機能は2階に集中しており、サービスがひとつのフロアーでできるように工夫されている。
 新館開館当時から司書採用を行っており職員の司書率が高い(正規職員92名中75名が司書)。さらには全市にくまなく分館を設置しいて、6地区館(1500~3000平米)7分館(150~500平米)2台の自動車文庫が配置されている。しかし、現在の資料費用は市民一人当たり92円と横浜市についで少ない。このことにより、登録率が41%と健闘はしている反面、貸出率は市民一人当たり5.3点とそれほど高くはない要因となっているようだ。
 堺市立図書館が、この間図書館界の耳目を集めた事件が2つあった。ひとつは分館の指定管理者制度導入化が図られたことである。これは市民団体などの反対があり、今のところ顕在化していない。一方、昨年1市民からBL(ボーイズ・ラブ)資料の公開に対する住民監査請求があり、これに中央図書館はBL本の公開書架からの撤去と18歳未満の利用者への貸出禁止を表明、これに対する図書館関係の民間団体や上野千鶴子氏らのグループの反対などを経て、貸出の解禁を決めた。図書館の方針が2転3転したいわゆるBL問題があった。
堺市立図書館はこれら2つの問題に対し公式の総括を行っていないので、これらの問題はいまだにくすぶり続けていると思われる。
 
 図書館の特色としては2つほど特筆すべきものがあるとおもう。
ひとつは郷土資料の充実である。昭和の初年に「堺市史」が編纂されそのときに収集された資料がコレクションの主部を形成している。図書館では一部これをデジタル化しインターネット上で公開している。さらには、安西文庫2,600点(安西冬衛:詩人)、上林文庫4,400点(上林貞治郎:経済学者)、後藤文庫1,000点(後藤清:法律学)、仲西文庫2,000点(仲西政一郎:登山家)、久野文庫20,000点(久野雄一郎:考古学)など遺贈された個人蔵書のコレクションも注目するところだ。
 次に、子どもへのサービス特に学校支援活動が盛んである印象を受けた。これには幾つかの要素があるようだ、ひとつは司書率が高く職員の資質がこのような活動を支えていること、二つには学校図書館支援センターを中央と地区館に設置し、各図書館に2~3名のスタッフを配置し、彼らが区内の重点校に集中的な支援を行っていること。3点目に堺市子ども文庫連絡会傘下の13の家庭文庫・地域文庫の存在やおはなし・絵本のボランティアグループ(13団体)などが、学校への出前読み聞かせや区民祭りとの連携事業、学校訪問、保健センターとの連携によるブックスタート事業などが積極的に行っていることがあげられよう。(ブックスタート事業は1000万円の予算が、市民の直訴により査定された)
 いっぽう、図書館を支える市民グループのその他の活動も活発であるといえる。これには二つの系統があるようだ。ひとつは図書館サポーター養成講座請講座を修了した「図書館サポーター倶楽部」による、ほんの修理や書架の整理、図書館行事へのスタッフ派遣など。一方は「ネットワークと・ま・と」につどう読書会や点訳グループ、音訳グループ、個人ボランティアなどによる図書館関係のボランティアの育成・研修を目的とした行事の積み重ねなどである。これらのまことに重層的な市民同士の協力関係の織り成す成果が、図書館による地域コミュニティー形成に果たす役割・可能性の重さををあらわしているといえよう。ちなみに、これらの活動を背景にした「堺市立図書館協議会」の平成20年8月の「意見書」は副題として「地域コミュニティーに貢献する図書館を目指して」となっている。
 この中で注目されるのは、(指定管理者制度に関連して)「堺市の図書館の運営形体」を章立てしていることである。
ここでは、図書費の充実と、司書の専門性をより発揮されるための体制作りを求めながらも、アウトソーシングの活用などによる管理運営の効率化は不可欠とし、図書館の管理運営計画を決定するに当たって以下の視点を十分検討すべきとしているのである。
・運営形体が市民本位のものであり、そのために市民のニーズを的確に把握する。
一般論ではなく当該館の歴史を含む地域の実情にあったものであること。
職員の専門的知識や能力が十分発揮できること。
中長期の視野に立った判断をすること
さらに、専門的業務の中に「市民の課題解決」「子育て支援・子ども読書支援」「地域活動への支援」に専門の担当を配置する、中央図書館に全館企画立案、ビジネス・行政支援地域情報の収集活用する担当を専任で置くという具体的な提案をしている。
むべなるかなというべき内容である。

喬木村立椋鳩十記念館・図書館と椋鳩十

はじめに
 喬木村(たかぎむら)は、天竜川を挟んで飯田市の対岸に広がる河岸段丘地にある。児童文学者であり鹿児島県立図書館長当時の活躍で、日本の図書館界に大きな礎を築いた椋鳩十(本名:久保田彦穂)が中学卒業までの多感な少年時代を送った地であり、また晩年別荘を建てそこを拠点に講演と執筆の多忙な日々をすごした地でもある。喬木村の図書館は公民館内図書室として永くあったが、平成4年に椋鳩十記念館設立を機に、これを併設した図書館として開館した。

 図書館・記念館の開館にあわせ、村は此処を基点に椋の胸像がある久保田家の墓地までの約3キロを遊歩道として整備した。図書館からの眺めは特に西面の中央アルプス側の山稜の眺めがすばらしい。図書館は、椋鳩十を意識して児童書に力を入れた蔵書構成となっており西面には椋の作品などを中心に児童文学室がある。玄関を入ってすぐに靴脱ぎがあり、ここで脱靴して入館する。記念館入場者も同様である。記念館は一般展示室を挟んで図書館と構造的にはつながっているし、図書館が開館中は誰でも入場が可能である。むろん無料である。 
 久保田館長のお話しでは、入館者は、学校の遠足で見学に来る小学生が圧倒的に多いとのことであった。記念館で熱心な図書館長の説明を聞いた後に、左手に摺古木山などの山姿を見ながらの遊歩道の道のりは、遠足にはこれ以上はないといってよいほどのロケーションである。道すがら、喬木小学校、そして中学校があり近くには「とろりんこ公園」「ハイジの碑公園」や「アルプスの丘公園」などが整備されている。すべて、椋鳩十の作品にちなんだイメージでつくられている。実際、椋も小学時代はこの道を通学路として毎日使っていたはずである。

 椋鳩十記念館・図書館は、これらの施設やいまや史跡となった椋の胸像などと一体としてみなさなくてはなるまい。昭和のはじめに、椋は飯田中学(現飯田高校)に通っている。学級で中学に上がれる子どもは2~3名であったというから、当時の久保田家にはそれを支えるだけの経済力があったということである。彼の父親は、牧場を経営し近郊に牛乳を販売して生計を立てていたという。にもかかわらず、椋少年が好きな本を希望通りに与えてもらえるだけの裕福さはなかった。この非裕福さ加減が、後の読書運動推進運動の先頭に立った椋の素養を作っているのであろうか。

 記念館は、椋の書斎をイメージした和室にはじまり、少年時代の椋の生活環境を髣髴させる展示品で飾られている。少年時代の本人及び家族の写真が、私には特に印象的であった。昭和初期に家族の集合写真がとれるだけの家計ということである。椋本人の蔵書のほとんどは鹿児島県加治木町の記念館に保存されており、こちらには写真類が多く保管されている。
また、村民が中心となり椋および記念館を顕彰する会が作られており、紀要の出版なども行われている。

≪下伊那の花火≫
「遠花火 消ゆるあとには ほしのさと」図書館玄関前に椋本人により揮毫され設置されている自作の句碑である。
 下伊那では、夏祭りに花火を上げるのがどこの神社でも慣例になっているようだ。だから夏は毎週花火の打ち上げが見えるというのだ。特に、伊那山地側から下伊那平を一望できる位置にある喬木村からの眺めはさぞやの景観であろうかと思われる。このことは、椋の長男久保田喬彦氏が著わした『父・椋鳩十』で父から直接聞いた話しとして語られていることである。平成15年の記録を見ると、7月24日(土)深見の祇園祭(阿南町)に始まり、8月にはいって毎週下伊那のどこかで祭りが行われ、必ずといっていい程度に花火が打ち上げられるのだ。なかんずく8月13日(金)~16日(日)は4日連続となり、とりわけ14日(土)は浪合村、大鹿村、根羽村の3箇所、15日(日)は喬木村、上村、売木村、天龍村の4箇所と集中し、その後も毎週土曜または日曜日を中心に10月中旬まで途切れることなく打ち上げ花火付きのお祭りが開催されている。椋が子どもたちに言って聞かせた伊那盆地の花火の豪快さは、あながちどころか、想像以上にすばらしいものなのだと思う。

 私が、伊那谷を訪れて感じたものは、例えば自分が住む秦野市においても感ずると同質の、落ち着きや安心感といったものである。あるいは、その思いは伊那のほうが山の深さや大きさの面でずっと勝っているだけ強いのであろうと思われる。山を抱えたものが、その土地に感ずる安心感といったものである。
 山はまず、豊富な栄養分のつまった飲用水を間断なく里に提供してくれる、台風や雪から里を守ってくれる。四季折々の風景は、美しく変化に富んでいる。加えて伊那谷は比較的広い耕作に適した傾斜地を、天竜川沿いにもっている。幾重もの河岸段丘がそれだ。平野部に比して耕作面積も狭く同一面あたりの収量も少なくはあるが、季節ごとや朝夕の寒暖差が大きいため作物が美味に育つ。従って、作業者の努力は報われ、住みやすい環境がそこに湧出されていくのである。そして鄙の地ゆえに、今日の都や東京の文化に対する渇望が都会人に比べ非常に強いのだ。そのために信州わけても伊那地方を含む筑摩郡域は、教育に熱心なる土地柄として全国にその名をとどろかせている。

≪小説『夜明け前』の時代背景≫
 島崎藤村の晩年の小説『夜明け前』は、江戸末期から明治20年ごろまでの中仙道馬籠宿で本陣宿を営む戸主「青山半蔵」の生涯を描いた傑作だが、主人公半蔵のモデルは藤村の実の父親である。中学を東京の新興・明治学院中学で過ごした藤村は、多感な青春期を東京しか見ずに過ごした。そのことが、彼の西洋、ハイカラ好みを染色したが、反面父の国学仕込の学風を好まなかった。半蔵は、熱心な平田国学門人であり、自宅を開放し自ら私塾の教師を務めるほどの教育熱心な素封家であった。当時、南信濃地方には平田篤胤の国学を信奉する郷の者が多く、平田門下では全国でもトップクラスの質量を誇っていた、その発信地は下伊那であった。平田篤胤直下の弟子がこの地で国学の講義を開講したことによる。彼や同門の友人に会うため、半蔵は一日がかりの木曽谷から伊那谷への峠道を通うこと度々のことであった。『夜明け前』にはそんな平田門下生同士の交流の様子が、生き生きと描かれている。

 明治初期にこの地方は、新政府による地租改正、郡令の専断による入会地への権利剥奪により人びとの生活は疲弊した。半蔵は後に発狂にいたりそれが彼の命を奪うのであるが、その因となったのが、これらの民の窮状を救うべく奔走した努力が時の地方政府により壟断され、彼の戸長解職にまでいたったことにある(いわゆる「山林事件」という)。また一方では、半蔵の存命中に飯田事件のような重大事件が起こっている。地方政府の失政が地方政府転覆計画を企てるほどまでに、反体制的な気分が醸成されたことが背景となったのであるが、藤村は近世史の中でこれを語らずして何を語るかともいえるような「大事件」に触れることを何故か意識的に避けたといえよう、何故だろうか。
 平田国学のような皇国史観の色濃い思想を信奉する教養人が、何ゆえに新体制に絶望していったのか、明治維新とは庶民にとって何だったのか。『夜明け前』は半蔵の生涯を描くことで、このことを世に問うている。

≪下伊那地方の青年会運動と椋鳩十≫
 さて、一方で明治末期から盛んとなった養蚕産業により伊那谷の経済は急激に潤い、となりの飛騨の国(現在は岐阜県であるが、明治期の一時期は伊那と同じ筑摩県)から作業労働者を大量に雇い入れるほどにまで、活気にあふれた地域となった。これらの財政的な豊かさを背景として、学校や芝居小屋、人形芝居舞台などに加え、村々に公民館的な建物(青年会館)を作る機運が高まっていった。村々に伝統的に組織された青年会を中心に自由大学などの自主的学習活動が展開されていくのだ。その中で図書館(青年文庫)は、青年たちの新しい活気に満ちた時代の新知識をみんなで学習したいという欲求から生まれたものだ。青年たちは、わずかなお金を出し合って運営資金に当て、それでも足りない分は入会地の薪木切り出しなどによる労賃を当て、本を買う費用を捻出した。それは、小野村や、上郷村だけではなく、下伊那地方全体において盛んに行われた。
 
 そのような時、東京から英語の学生教師が飯田中学に赴任した。名を正木ひろしという。彼が下伊那の地を最初の就職先をして選んだ理由も、下伊那地方にみなぎる革新的なあるいは活性化した雰囲気に引かれてのことと思われる。彼は、いまだ封建的な雰囲気を引きずる中学校の内実になじめずにいる子どもたちを集めて読書会を開く。佐々木という後に法政大学の国文学教員となる先輩教諭と二人で読書会は運営された。その読書会は「またたく星の群れ」と命名された。この「またたく星の群れ」に、久保田彦穂という少年がいた。後の、椋鳩十である。
「またたく星の群れ」は彦穂少年にとっては、思い出深い人生勉強の場となる。椋は後に、ある講演で次のように回想している。
「正木先生は、田舎の中学生なんか聞いたこともないような、カーペンターとかカーライル、トルストイといった人びとの著作から、さわりの部分だけを原書のままガリ版刷りして配り、それを訳してくれそれから独特の解釈をしてとうとうと論じてくれました。佐々木先生は、現代作家のものをガリ版刷りにしてテキストを作り、講義してくれました」・・・「学校の休み時間なども・・・・我々のレベルまで下がって、「この野郎何をいうか」とか「それは間違いだぞ」と、(我々と)同じように口から泡を飛ばして(人生観や、世界観の)議論をやってくれました。私はあのころ。佐々木先生や正木先生に出会ったことが、ほんとうに幸せだったと思います。今考えてみても、何かしら幸福なものが心の中にポーッと暖かく浮かんできます」

 後に、法政大学に進学し詩作に励み、当時最も時代の先端を行く佐藤惣之助率いる「詩の家」でも将来を嘱望された若干20歳の才能は、このとき培われたのだと私は思うのだ。ちなみに正木先生は、大学卒業と同時に弁護士となる。その後弁護士として多くの難事件(首なし事件、広島八海事件、メーデープラカード事件、チャタレイ裁判、三里塚事件、丸正事件など)に立ち向かったあの「正木弁護士」その人なのである。そして彼が生涯をかけて取り組んだ活動、それが飯田事件の足跡を収集し、さらにその写真を多数残し後世のわれわれに伝えたことであった。彼の死後、残された資料群が飯田市立図書館に保管されたということも、別の項で述べたとおりである。
 そして椋は、次のようにも語るのだ。「『瞬く星の群れ』の文学仲間で、同じ村から通っていた学生が3人いました。私と水野は貧乏でなかなか本が買えないので、大沢が買ったばかりの本を、仲間である水野と私に読んでくれ、私たちは(それを)空を眺めながら聞くこともありました。・・・・(彼の読んでくれた世界の)空想が(私の中で)自由に広がりました」
 まるで、後に椋が鹿児島県立図書館長時代に取りくんだ読書運動(「母と子の20分間読書運動」)を彷彿させるようなシーンではないだろうか。彼が提唱した読書運動は、母親が一日20分だけ子どものために耳を傾け、子どもが音読するのを聞こうという運動である。子の感動や、心の移ろい、成長がそのまま母に伝わり、親と子が感動や喜びを共にする中で、親と子の絆、家族の絆を強めていこうという提案であった。
喬木村の子どもたちが、椋の本を読みながら、夏には毎週のように見える花火に驚きの声を揚げ、四季折々の季節感豊かな自然の中で成長していく、そんな村にいま椋の名を冠した図書館と記念館があるのである。
(この項、終了)

付記:
以上の論稿は喬木村立椋鳩十記念館・図書館久保田毅館長へのインタビュー(2008年9月20日)と、いただいた諸資料を参考にして西野の責任にて執筆しました。なお、図書館や事業、その他人物の評価についてはすべて西野が独断にて行ったものであり、インタビューにお応えいただいた内容とは別のものであることを念のためお断り申し上げます。
調査にご協力いただいた、久保田様はじめ図書館員の皆様に心より感謝申し上げます。 

参考文献:
『村々に読書の灯を-椋鳩十の図書館論』(本村寿年 理論社 1997 )
『父 椋鳩十物語』(久保田喬彦 理論社 1997)
『椋文学の軌跡』(たかしよいち 理論社 1989)
『母と子の20分間読書』(椋鳩十 あすなろ書房 1994)
『読書運動』シリーズ・図書館の仕事・16(叶沢清介 社団法人日本図書館協会 1974)
『信濃少年記 椋鳩十の本 第20巻』(椋鳩十 理論社 1983)
『夕の花園 椋鳩十の本 第1巻 』(椋鳩十 理論社 1982)
『鷲の唄 椋鳩十の本 第2巻』(椋鳩十 理論社 1982 )
『感動と運命 椋鳩十生誕100年記念誌』(椋鳩十記念館 2005)
『紀要 感動と運命』第2号(椋鳩十顕彰会・椋鳩十記念館 2008)
『夜明け前 第1部 第2部 』(島崎藤村 岩波文庫 2001)

「喬木村立椋鳩十記念館・図書館」
http://www.vill.takagi.nagano.jp/sisetu/muku.html 2008.10.1
「飯田・下伊那の花火(平成15年)」
http://www.pref.nagano.jp/xtihou/simoina/syoukou/event/e16nabi.htm 2008.10.1

飯田市立図書館と豊穣なる下伊那文化

≪はじめに≫
 昭和6年、旧飯田城二の丸跡地に立地した飯田連隊区司令部庁舎あとに兵舎の建物を再利用した町立図書館が、設立された。昭和54年その図書館に変わる新市立図書館をつくるにあたり、駅前再開発ビル内とすべきか、旧図書館敷地に建て替を行うかで、議論があった。結果として、旧市立図書館と同じ土地を活用することになり、和(やまと)設計事務所の総括監理の下昭和56年7月に新中央図書館が開館したのである。
 なお、戦後の自治体合併により旧町村の公民館図書室を市立図書館の分館に組織換えした(昭和39年の合併で計14分館、)。また、鼎町とは昭和59年、上郷町とは平成5年合併しすでに町立図書館として活動をしていた実績のある2図書館は分館ではなく地域館の位置づけとなっている。平成17年、上村、南信濃村が合併し分館は16館となった。
 中央図書館および地域館はオンラインシステムにより結ばれている。地域館には週6日、分館には概ね週2,3日の頻度で中央図書館を基点に巡回車が運行されている。自動車図書館はない。職員体制は、中央図書館の職員8名、臨時職員7名(司書資格あり)ほか土日パート、地域館職員2,3名、臨時職員1,2名分(分館は開館日にあわせて日雇用の臨時職員が対応している)。
 教育長と図書館長を兼ねていた松澤太郎氏が市長に1972年(昭和47年)10月、就任し1988年(昭和63年)10月の退任まで4期16年を勤めた。その間には飯田市立図書館の建て替え、飯田市美術博物館、日夏記念館、柳田国男館の建築をし、人形劇カーニバル(現在の人形劇フェスタ)の開催を決めている。読書家としても知られている。松澤氏は飯田市の文化行政に特に力を入れた。このような関係もあり、従来飯田市の図書館は人材面で比較的に恵まれた時期がつづいたといってよい。中央図書館開館時には、司書の採用に力をいれ、司書資格者は希望にもよるが他への異動をできるだけ控えさせた形跡がある。歴代の館長、職員には退職後も地域の文化的あるいは資料充実面での貢献を怠らない、奉仕精神が旺盛である。このような、関係を見ると図書館文化の継承、発展と人材の養成とは深いかかわりがあるということが理解できよう。

≪下伊那周縁域の文化≫
 飯田市は戦後期の合併により特に文化面で大きな恩恵を得たといってよいのではないか、と私には思えるふしがある。上郷、千代、鼎地区は大正期青年会活動が活発に行われ、これらの村での自由大学活動などの影響を受け、上田市とならんで青年会と図書館も活発に活動した記録がある。図書館活動では旧飯田地区よりも千代、上郷地区のほうがむしろ活発であったともいわれる。(『自由大学運動と現代』)これらの地域は、自由民権運動における飯田事件、大正デモクラシー時代の飯田自由大学運動などの反体制的な気風の強い独立不羈ともいえる風土を継承しながら、地区々々の濃密なコミュニティーを残してきたようだ。
 また、旧上村、南信濃村の遠山郷からは後藤総一郎が出て後に「遠山常民大学」をおこし下伊那地区の歴史・民俗の掘り起こしを行うにいたる。椋鳩十は、中学時代の山行での出会いが縁となって、遠山郷和田地区の星野屋に入れ込み幾日も逗留する中で、毛皮取引の相手である「山の民」の生活を知るようになる。彼の動物小説の多くが山の生き物と動物たちとの駆け引きであったり、また心の交流がテーマとなるのはこのころに出会った、山里で暮らす人々びとから聞いた話しや交流が土台となっていることは疑いがない。また、このころサンカといわれる放浪の民との出会いを実際経験しているらしい。サンカ小説家としての椋鳩十と動物作家としての椋鳩十は根っこを同じくしているのである。
 椋鳩十の文学をはぐくんだ遠山郷から民俗学者後藤総一郎が出たのも偶然ではない。後藤はこの村の教育長を務めた父親と村長を務めた叔父を持つという。叔父が村長の時、『南信濃村史 遠山』の刊行をまかされ、結局生活費を投じてもなお足りずという状況の中で、村民の多くの証言や記録が主役のこれまでにないスタイルの「地方史」を刊行する。後藤はその後民衆が自身の地域を記録し、伝承を引き継ぎ、歴史や民俗を紐解く各地の「常民大学」づくりにのめり込んでいく。その後藤は、飯田市立図書館に通いつめて下伊那の何たるかを学んだのだ、とわたしは想像したい。
 「常民大学」の学びから、遠山郷の「霜月祭」の民俗学的重要さが見直され、現在では全国から多くの観光客をひきつけるイベントにまで発展している。こうしてみると、町おこし、村おこしへの飯田市における図書館の貢献度は計り知れないものがあろう。ローマは一日にして成らず、という金言が文化創造と図書館との関係においてもいえるのだということが分かる。

≪下伊那と人形劇≫
 飯田市では、1979(昭和54)年から、飯田市内の施設を会場に「人形劇カーニバル」が毎年8月上旬に開催されている。20年目の記念大会は「世界人形劇フェスティバル」を併催、海外12、国内23、伝統11の劇団を招待し、期間中5万人を超える観客があった。21年目の1999(平成11年)年に「人形劇フェスタ」と改称し体制も新たにスタートし、10年目の本年「世界人形劇フェステバル」を再併催した。現在も、長野県内外から300を越える劇団が参加し、市内100の会場を舞台にフェスティバルは続けられている。劇人だけで1500人、うち海外から50人、観客4万人という世界規模の大イベントである。
 伊那谷では近世以降人形芝居が村々で盛んに行われ、特に下伊那では人形本体も舞台も現存している地区が多い。実は、全国でも近世に起源を持つ人形本体や舞台が保存され現役で活躍しているなどということは、伊那谷以外ほとんど例を見ないのだという。(『人形芝居の里』)人形浄瑠璃座が現在でも活動する4地区(古田、黒田、今田、早稲田)のうち、特に黒田人形は保存会や、地元・(高陵)中学校人形劇部などの活動が特に活発で、我々も時としてテレビのローカルニュースなどでその様子を拝見させてもらっているほどだ。古田人形は蓑輪町にある、これは辰野市の南である。早稲田人形は阿南町の天竜川沿い部落に生きている。これは、飯田市の南にある。黒田人形、今田人形は現在の飯田市内で生きづいている。黒田人形は旧上郷村黒田地区の諏訪神社の春祭りに合わせて、境内の黒田人形舞台(国重要有形民俗文化財)で奉納上演される。黒田人形舞台は、私も見に行ったが誠に立派な人形芝居専用の建物である。中央舞台部分に立て柱を用いず梁の支力だけで大きな舞台を支えあわせる構造には、現代建築に通じるものがあるのではないか、とさえ思わせるものがある。(諫早市立図書館の開架室も天井の構造力だけで、柱を用いず広い空間構造をささえていた)
 平成9年にこの舞台とは別に市の「黒田人形浄瑠璃伝承館」が完成し、人形4座の交流・研修拠点となっているという。

≪豊穣なるコレクション≫
 飯田市立図書館は、かような学問・文化の気風、自立の気風を色濃く残す文化風土を引き継ぐことを鑑みた上で、新しい図書館の立地にふさわしい場所として旧飯田城二の丸跡地を再び選択させしめた、と思われるのである。
 現在この図書館の2階部分を占める郷土資料室は、このような歴史の蓄積の横溢に圧倒されんばかりだ。貴重なる資料群が公開書架を埋め尽くすという表現があたるほどに、質もボリュームも圧巻である。そして、書庫には目もくらまんばかりの特別コレクションが所狭しと並んでいるのである。この中で、いかにも「辺境地域文化圏」にふさわしいいくつかを紹介したい。
 ここであえて、「辺境」という言葉を使わせていただいたのは、ドイツ文学者池内紀(おさむ)氏の主張に沿ってみたかったからである。私の飯田図書館訪問の前日まで行われていた「第94回全国図書館大会神戸大会」の記念講演で、彼はこういったのだ。「文化それも個性的で人をひきつけてやまない文化は、その国々の中心にではなく辺境といわれる地域にこそ花開く、ドイツ語圏で言えばチェコやオーストリアなどドイツ文化圏の周縁地域である。フランツ・カフカしかりミヒャエル・エンデしかり」と。これは、私の図書館を巡るたびで、例えば沖縄浦添市立図書館における沖縄学研究への真摯な態度、奄美大島における読書会活動や創作童話活動の隆盛、伊万里市立図書館における「伊万里学」の展開などなどを、目の当たりにみて感じていたことと同一線上にある文化論であるとおもったのだ。

 竹村浪の人(なみのひと)という人を食ったような名を持つこの御仁は、東京で事業を起こすも関東大震災で財産を消燼し、故郷飯田に帰るも昭和22年の飯田大火災でまたまた資産を消失するが、飯田地方の文化的伝統の奥深さ全国に知らしめんがため、講談師となって創作講談を携して伊那地方などを巡回してまわったというかわった経歴の持ち主である。図書館が、市政70周年を記念して竹村を顕彰し、講演の生テープをCD化してこれを保存、後世に伝えるという事業を展開した。印刷体の講談集は全2巻、50部を発行した、自由民権末期に政府機構の転覆までをも視野に入れ計画されたが未遂に終わった「飯田事件」、江戸期ひとりの犠牲者も出さずに所期の目的をかなえた一揆として特筆される「南山一揆」などを物語化したものなどもあり興味深い。
 
 長野県には郷土研究誌の発刊が多数健在である。「長野県地方史研究の動向」(信濃史学会『信濃』第60巻第6号)によれば、『信濃』『長野』(長野郷土史研究会)『伊那路』(上伊那郷土研究会)『伊那』(伊那史学会)など老舗郷土研究誌のうちでも通巻900を越すのは『伊那』のみである。『伊那』は全国に会員1000名以上を数えるほどの勢いを保っており、現在に至るも継続して発行されている。母体である「伊那史学会」が飯田市立図書館と深くかかわりがあるのはいうまでもない。これらの資料はもちろんすべて図書館で保存され閲覧が可能である。「飯田事件」「南山一揆」の研究もこの郷土研究誌を舞台に行われた。身に一物とてない竹村がこの図書館の資料を渉猟し作品を作り上げたということは疑いがないし、市政70周年事業に図書館が彼を顕彰したということにこの図書館の姿勢のほどををうかがい知るのである。

 そして、「宮沢文庫」は 「ニコヨン学者の」として広く知られる宮沢芳重氏が、飯田の地に大学設置を夢見て生前東京で失対事業に従事しながら寄贈し続けた1000冊近くの知の集積とも言える人文書コレクションである。昭和33年には宮沢の寄付と働きかけによって、飯田高校の天文台の設置が実現したという。入院する前日までニコヨンと学生を続け、亡くなった後遺体は本人の意志で東京大学へ献体された(1970年没)。彼の名はその後伝説となり、全国からこのコレクションを拝観する見学者が今も絶えないという。
 「平沢文書」は、代々下伊那の地で庄屋となった久堅北原地区の平沢家で所蔵していた古文書群。平成16年県宝に指定された。戦国時代末から幕末にかけての検地帳、年貢帳など各分野の古文書約3,800点である。全国的にも屈指の地方文書(じかたもんじょ)として注目されている。寄贈された平沢清一氏は自身郷土史家としても知られ、51歳の時カリエスのため下半身不随となりながら、平沢家文書の整理、解読と郷土史研究に没頭した。『近世農村構造の研究』『農民一揆の展開』『伊那の百姓一揆』などの著作を残す。清一氏存命中に平沢家から飯田市立図書館へ寄贈され、現在は飯田市歴史研究所に移管、図書館ではマイクロフィルムで閲覧が可能。

≪図書館と市民活動≫
 さて、中央図書館には「生活とビジネスに役立つコーナー」がある。今様の課題解決型図書館論の趣旨を取り入れ、利用者の便に供している。現代的な課題にも果敢に取り組む姿勢をよしとしたいと思う。このコーナーの設置に当たっては、かつて経団連図書館でその名を全国にはせた村橋勝子氏の助言もあって、現市長直々の提案があってのことと聞く。この地での図書館の注目度を測る上で参考となるエピソードである。村橋氏自身の蔵書の一部も寄贈され、別にコーナーが設けられている。
 さりながら、この図書館の最も耳目を引く点は多くの市民活動の育成支援を行っているということのように私には、思えるのである。
 まず、50年もの歴史を誇る「婦人読書文庫」がある。PTA母親文庫の支部組織として始まった活動ではあるが、母親自身の読書会として発展的に改組し自主自立の読書組織「飯伊婦人文庫」として活動している。傘下に12の読書会を抱える大所帯である。事務局は飯田市中央図書館にある。昨年6月に「飯伊婦人文庫」が刊行した『みんなとだから読めた!-聞き書きによる飯田下伊那地方の読書会の歴史-』を読んでみたが、なんと下伊那地方には「飯伊婦人文庫」が把握しているだけでも70を超える読書会が活動中とのことである。これらの読書会の一つ一つの歴史を閲すると、読書会活動にも歴史・伝統というものがあるのだと納得させられてしまう。
 テーマを決めずにその時々に興味を持つ作品を選ぶグループ、島崎藤村や椋鳩十などゆかりの作者にこだわるグループ、日本古典文学専門のグループ、源氏物語だけを極めるグループ、旅と読書を楽しむグループ、ゲーテを原書で読むグループ、実にさまざまなテーマがあるかと思えば、音読、輪読など方法もさまざまなのである。伝統あってこその進歩あり、そして進歩がまた新たな伝統を作るのだということを思い知らされる、脱帽である。

 下伊那の戦後、新しい民主社会をつくるという希望に満ちた時代に読書会活動をリードしたひとりに、小野惣平がいる。彼は戦時下、上郷小学校の教師であり上郷図書館の司書を兼ねていた。戦時非常体制のもと小学校に図書館の運営主体が移された結果の人事ではあったが、大正デモクラシー教育が盛んな時代に多感な青春時代を長野師範学校で学んだ彼は、戦時下においても比較的自由な雰囲気で青年たちの読書会を指導し続けた。これらの活動が、戦後花開くのである。下伊那には、上郷以外にも戦時下読書会活動をつづけた青年会が多数あったという。そのような中で、何であれ読書会の母体は公民館、図書館、婦人部、青年会などをはじめ多様な形で脈々と続けられており、これらの読書会活動から育った人材がやがて次の読書会を組織する指導者になったりするのである。飯田市の場合は、そのもっとも典型的な例が元図書館長であり、後に元市長となった松澤太郎氏に求められるような感じの距離感で多くの指導的人材に事欠かない。
 
 かつて、上郷公民館の社会教育主事を努め、後に研究者となり日本社会教育学会会長を務めた島田修一氏は、この冊子に寄せた寄稿文の中でかたっている。まず上郷公民館に就職しようと心に決めたきっかけが大学生時代「長野県読書大会」へ参加したこと、公民館の青年学級のなかで読書会活動が多くの青年たちを支えただけでなく、自分と学級生との太い絆を築いたと強調している。それは、40年の時を経ても鮮やかに記憶されるほどの根を持つ体験なのである、と。そういう文章を読むと、下伊那の読書会は実に多くの人材を世に送り出しているといえるのである。

 飯田市立図書館では、そのほか朗読奉仕の会(80名)、文章講座(70名)など、市民が活動する場は枚挙に暇がない。上郷図書館の講座を出発点にそだった組織として、子どもの本研究会(20名)。手作り絵本の会、創作童話の会、おいもの会(60名)などがある。おいもの会は、児童図書の学習グループとして、会員は年間12,000円もの会費を払って年4回程度児童文学作家や編集者を招聘し、学習を重ねているという。この会のついては、上郷図書館の項で触れたい。

≪図書館まつり≫
 そして、この図書館の最大のイベント「図書館祭り」は、豊橋市立図書館との交流の中から生まれた事業として、特筆すべきであろうか。
 なぜなら、明治17年に起こった飯田事件は、自由民権運動における騒擾事件で秩父事件と並び、国家機構の略取にまでを計画をしたという点で同様の特色を持つことで研究者の間では評価されている。秩父事件と、飯田事件の違いは前者は騒乱を実行したことであり、後者は実行寸前で捕縛されたことである。この飯田における騒乱計画の首謀者は伊那地方出身者より三河地方出身が多かったことに、当時からの両地域の交流の濃密さをうかがわせるが、現代における図書館同士の交流にもこのようなことが息づいていることには驚かされた。
 いや、そんなことよりは天竜川流域の遠山郷一帯に広がる「霜月祭」、新野(売木村)の「雪祭り」、坂部(天龍村)の「冬祭り」といった南信地域の「奇祭」といわれる伝統的な祭りは、「湯立て神楽」という宗教的な儀礼を色濃く残す祭りとして今日あまたの民俗学研究の関心をひいているが、奥三河における例えば東栄町の花祭り(12月)などとの関係性を重視する視点などが注目されるのだ。つまり、近代における飯田線の敷設よりずっと以前から、天竜川と伊那街道・秋葉街道を縦糸に、これらの地域は蜜に行き来していた背景があるといったほうが、歴史認識のあり方としてより適切であろうかと思う。事実、南信州、奥三河、北遠域の県境三圏域交流懇談会が自治体主導で進められており、文化・観光・流通などの面での相互協力を図っているのだ。図書館における協力が、特別のものではないということでもある。
(私は、これらの文化圏の中核に秋葉神社の存在を見ようとするが、それは今回のテーマから少々ずれてしまうので、あとに譲りたい)

 さて、豊橋市のそれから学んだ図書館祭りは、どのようなものであろうか。
1昨年の第6回の実績を見ると、11月25日~12月3日の日程で、講演会は河合隼雄氏を予定するも講師の病気により中止、河合氏の著作を中心に3回の読書会を行う。堀家文書などの展示会。コラボレーションとして、文章講座OBによる自作の朗読会、講座、元図書館係長(現瑠璃寺住職)による図書館のお宝と歩みなどとなっている。
 訪問した当日は、展示会の最終日であったが、テーマは「三遠南信地域資料展」の最終日であった。まさに、伊那地方と遠州、三河地域の戦国の世の戦争と交流の歴史展であった。内容的には豊橋市図書館との共同による展示会である。
 翌日は、南信地域の信玄支配地における狼煙体験イベントを行うという趣向であった、市民による市民に根ざした地域文化活動を図書館が自らになっているといえよう。
 これらのイベントのための予算は、講演会参加費などですべて市民実行委員会が確保して実施している。まさに自立した市民の姿ではあるまいか、私などはすぐそのように思いたがってしまうのだ。

 なお、蛇足に類すると思われるが毎年「飯田歴史大学」が行われていたが、これは後藤総一郎氏が立ち上げた「遠山常民大学」の発展系として設立された柳田國男記念伊那民俗学研究所と図書館との共催事業である。1989(平成元)年、柳田國男の書斎が市美術博物館に移築されたのを機に、常民大学は柳田国男記念伊那民俗学研究所へと活動の場を移す。柳田は,かつて飯田藩士であった柳田家に婿養子に入ったため、自身の本籍が飯田に置かれたことが縁で生前たびたび下伊那を訪れ、講演や地元郷土研究家との交流を重ねている。『信州随筆』はこれらの交流の中で、触発されて刊行したものだ。そのような関係もあり、死後書斎(柳田自身「喜談書屋」と称した、話し好きの柳田らしい命名である。)が飯田に移築された。これには、後藤や下伊那の多くの郷土研究家の熱意が深く影響したことを後藤自身が告白している。(『柳田学の地平線』)
 そして、飯田市美術博物館のもとに研究所の運営が託されることになり、これに図書館が資料面での支援をおこなっていると聞いた。
 美術博物館は概観が中央アルプスの山稜をイメージした屋根を背負う、ガラスを多用した荘こうなる建物であり、自然、民俗、美術の学芸員を配置し伊那史学会、伊那谷自然友の会などの地域研究団体の連携と交流を支援している。
(この項、終わり)


≪上郷村と青年会図書館≫
 上郷図書館は、近代的な総2階建ての図書館であり、もはや大正から昭和にかけての青年会図書館の名残を残してはいない。しかし、青年会の図書館はこの図書館の裏の空き地に展開していたという話しを聞いた。飯田市との合併までは、図書館の入り口前に隆としてそびえる左右2本の門柱の右側柱には、「上郷青年会」という文字が大書刻印されていたというが、合併後はさすがに「飯田市立」という平凡な肩書き文字に差し替えられた。この町の人々の青年会図書館に対する思い入れの大きさに感服させられる話しではないか。
 昭和60年に現在の図書館を建てた上郷町は、翌年上郷小学校図書室の司書であった下沢洋子氏を招聘、下沢氏は62年4月に図書館長となり以来ずっと館長をされている。長野県下では、図書館員であれば一度はその名を聞くであろうという、児童サービスのリーダーである。飯田市立図書館は、児童サービスの中心的存在としてこの図書館を位置づけ、職員の養成や児童へのサービスに関心を持つ市民向けの連続講座などもおこなってきた。さきほど、中央図書館の項で紹介したように飯田市の図書館における児童関係のサークルやボランティアは、ほぼこの図書館の主催した講座受講者から生まれたといっても過言ではない。例えば、「おいもの会」は(新宿区立)鶴巻幼稚園での実践活動でその名を知られた市村久子氏を招いての連続講演会の参加者により始まった、現在は市村氏のほか作家や編集者などを年3~4回招聘し、児童書の勉強会を続けている。驚嘆すべきは彼女たち60名ほどのグループは、各自が年間12,000円もの会費をおさめてこの学習活動を続けているということである。曰く、東京まで公演を聴きに行くことを考えると、12,000円では往復運賃にも足りないが、この会費のおかげで年間数回も講師を呼びじっくり勉強することができるのだというのである。この不羈の精神に「下伊那女子青年部」の血脈が太く彼女らの中に息づいていると感じるのは、私だけであろうか。

 学ぶべきは、図書館内での児童サービスは職員が責任を持って行うこと、学校などへの読み聞かせなど地域的な展開においてボランティアの活動の場を考えるという発想である。図書館はボランティアの育成支援ための講座を設けている。25名の定員はいつも参加希望者がオーバーするそうで、優先順位としては全会参加できることを上げているというのである。講師は、下沢館長はじめ市立図書館の職員がつとめる。
このような図書館では、選書をどのように行っているのかを聞いてみた。児童書は、見計らいを重視しているとのことで、これらを担当している「南信こどもの友社」や松本市にある腰高一夫氏経営の「ちいさいおうち書店」などの名をきくにつけ、子どもの読書文化を支える方々の地方的なにおいに接する思いがした。

≪青年会図書館≫
 上郷図書館の書庫には、上郷村青年会の残した活動の記録が丁寧に保存されている。青年会記録は、総務部、図書部、文化部などの各部に分けて保存してあった。大正14年ごろから戦後にかけて、おそらく遺漏することなくきちんと記録され保存状態は非常に良好であった。戦後の一時期のものは紙質が悪く劣化が激しいゆえ触るのもはばかられるが、私がかねがね興味を持つ大正期や昭和初期のものは、当時のままの姿で保存されているといってよい。紙質も思いのほかいいと思った。そして、年々執筆するものが引き継がれ、従って年によって記録者が変わるのであるが、ある年は金釘流のような字体で書かれたものもあれば、ある年のものは隆々として祐筆家が書いたのではないかと見まがうばかりに達筆なものにもであった。
 図書館を辞して、車で野底山の旧入会地を見に行った。途中黒田地区の下諏訪神社によることができた。ここは、黒田人形芝居が年に一度興行されるところである。境内にある人形公演専用の舞台については、先ほど述べた。
 野底山(のそこやま)の入会地は山全体が飯田市域の郷土環境保全地域に指定され、森林公園として整備されていた。青少年の家やキャンプ場もあり、飯田市民の憩いの場となっている。上郷青年会は1922(大正11)年上郷小学校の一部を間借りする形で青年会文庫を立ち上げる、そして文庫運営費用と図書館建設資金を捻出するため、当時この山に入り粗朶や枯れ枝を集めこれを村に売り、その費用で図書部の資料を買い、上野の帝国図書館にまで行って助言を仰ぎ、購入した資料をみんなで廻し読みを行ったり、読み聞かせの読書会を行ったり、時には講師を招聘し講座を開催したりした。
 その後この青年たちは、自ら積み立てた資金を元に県下でも有数の規模と利用を誇る青年会立図書館(青年開館併設)を1936(昭和11)年開設し、自主運営を貫いた。戦時下、村の青年の多くが戦争へと駆り出される中で、1941(昭和16)年小学校に運営を委ねたが、女性青年部員と若き小学教師たちがその伝統を引き継ぎ、図書館を守り抜いたのである。戦時下にあっても苦節の中にこれを運営しぬいた青年たちが、70年以上の時を経てよく整備されたこの美林を見たときの感慨の重さに私もしばし浸ることとした。
 
 図書館は民衆が開くものである-昭和61年に上郷村図書館を開館したとき、この町の幹部が何故「上郷村立」ではなく「上郷青年会」と門柱に書したのか、上郷青年会図書館の苦難に満ちた輝ける歴史を顧ればその答えは自ずと導かれるはずである。図書館で学び、それでも飽き足らず先覚の師に教えを請い、実践しそれを広め、さらに自らを深めるために学習する、そして実践する。
 やがて時を経て、そのような青年たちこそが地域のリーダーとなり、あるものは政治の世界に、あるものは文学の世界に、あるものは芸能の世界に、あるものは教育に、あるものは農の世界をきわめていくのである。
 上郷村の青年が記録した活動は日本の社会教育と図書館活動の原点になっているといっても過言ではないだろう、と私は言いたい。

 全国には多くの優れた活動を残した青年会活動がある。静岡県庵原村の青年たちは、鉄筋コンクリート3階建ての中学校を自分たちの力で立て、奨学金を積み立て後輩たちの勉学を援助した。倉敷市の青年会は木綿紡績の会社を立ち上げ、病院や労働問題・労働科学の研究所を立て、日本の労働者の福利厚生に深く貢献した。岡山県柏谷(現岡山市)の青年たちは、明治期においてフランスの農業を原典から学習しマスカットの温室栽培を日本で始めて成功させ岡山の特産にした。明治後期から大正期、昭和前期にかけての青年会の活動には、地方から日本の産業、文化、教育を突き動かすほどの力を持った例が生まれた。(『日本社会教育発達史』)
 下伊那地方の青年たちも、他の地方の青年に負けず学習にいそしんだし、彼らは非常に正確に自分たちの活動を記録し、それを後輩たちに引き継ぎ、保存した。かつ、これからが大事なことなのだけれども、それらを保証するための図書館を持ち、その図書館を大切に守りぬき従ってそのすべてを残した、ということである。このことのために、我々は当時の青年会の活動をつぶさに研究することが可能となったのである。結果、下伊那の青年会活動は社会教育史、図書館史を含めての典型として、今日多くの研究者をひきつけてやまないのである。
 我々は、この青年たちにこそ図書館の最高栄誉たる金メダルをささげたいものである。
(この項終わり)



付記:
 以上の論稿は飯田市立中央図書館・情報サービス係長加藤みゆき氏及び上郷図書館長下沢洋子氏へのインタビュー(2008年9月20日)と、いただいた諸資料を参考にして西野の責任にて執筆しました。なお、図書館や事業、その他人物の評価についてはすべて西野が独断にて行ったものであり、インタビューにお応えいただいた内容とは別のものであることを念のためお断り申し上げます。
調査にご協力いただいた、加藤様、下沢様はじめ多くの図書館員の皆様に心より感謝申し上げます。   

参考文献:

<飯田市立図書館関係>
『図書館概要 平成20年度』(飯田市立図書館 2008)
『長野県の歴史散歩 』(長野県高等学校歴史研究会 山川出版 1975)
『柳田学の地平線-信州伊那谷と常民大学』(後藤総一郎 信濃毎日新聞社 2000)
『地域民衆史ノート-信州の民権・普選運動』(上條宏之 銀河書房 1977)
『人形芝居の里』(唐木孝治 信濃毎日新聞社 1998)
『みんなとだから読めた!-聞き書きによる飯田下伊那地方の読書会の歴史-』
(飯伊婦人文庫 2007)
『みんなで読もう-飯伊婦人文庫40年史-』(飯伊婦人文庫 1997)
「信州随筆」『柳田国男全集 24』(柳田国男 筑摩書房 1990)
 
「飯田市立図書館」http://library.city.iida.nagano.jp/ 2008.10.1
「飯田市美術博物館」http://www.iida-museum.org/ 2008.10.1
「黒田人形浄瑠璃伝承館」
 http://www.city.iida.nagano.jp/puppet/sisetsu/kuroda.html 2008.10.1
「いいだ人形劇フェスタ公式ホームページ」http://www.iida-puppet.com/ 2008.10.1
「霜月祭り-長野県最南端の秘湯と秘境の里・信州遠山郷」
  http://www.tohyamago.com/simotuki/ 2008.10.2
「遠山祭り(霜月祭り)の伝承」
 http://nagoya.cool.ne.jp/matsunari/Mwm/00_14/otogi.htm 2008.10.2 


<上郷図書館関係>
『知恵のなる気を育てる-信州上郷図書館物語』(是枝英子 大月書店 1983)
『公共図書館サービス・運動の歴史 1 -そのルーツから戦後にかけて』
       (奥泉和久他 日本図書館協会 2006)
『自由大学運動と現代-自由大学運動六〇周年集会報告書』
(自由大学研究会 1983)
『下伊那青年運動史-長野県下伊那郡青年団の五十年』
(同編集委員会 国土社 1960)
『日本社会教育発達史-歴史の中で「教育」を考える』(増補改訂版)
                             (居村栄 明治図書 1988)

図書館人としての島尾敏雄と奄美大島


はじめにー県立図書館奄美分館の成立

 鹿児島県立図書館奄美分館は、昭和33年4月に奄美日米文化会館を母体として発足した。住所は名瀬市井根町であり、場所は現在の名瀬市役所近辺である。建物老朽化と狭隘を理由に昭和39年現在の小俣町に新館を建設し移転を行い、そのまま現在に至っている。
 初代館長島尾敏雄氏は、文学者島尾敏雄その人である。島尾の館長就任については、すでに県立図書館長となって久しい久保田彦穂(椋鳩十)の支持があったと推察されるが、島尾は郷土研究家として知られていた文英吉前館長の死去の後を受けて、昭和32年12月から奄美日米文化会館長を勤めていた。日米文化会館を県立図書館奄美分館として残すという課題は以前からの懸案ではあったが、文化会館長就任後の島尾らの強い働きかけによりようやく実現に至ったとみるべきであろう。

 分館としての位置づけはなったものの、旧奄美図書館、博物館および日米文化会館の資料に若干の新規購入図書を加えただけの図書館の資料は、非常に厳しいものがあったことは想像される。記録によると、図書5,980冊、レコード630枚、その他博物資料となっている。
 ただし、日米文化会館の職員体制を引き継いだことが幸いして、7名の職員が配置された。サービス範囲は、奄美本島のほか喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の計5島14市町村である。これらの地域の読書活動センターとしての位置づけにたって、保存図書館・参考図書館・貸出図書館としての役割が与えられた。(『鹿児島県立図書館史』)

 東京での作家生活の破綻から立ちなおるべく一家をあげて奄美大島に移り住んだ島尾にとって、この図書館に職を得たことの心の安らぎは計り知れないほど大きかったと思われる。このあたりの経過は『南島通信』に「『奄美の文化』編纂経緯」として短い文章ではあるが記述されている。当時の県立図書館長であった久保田彦穂(椋鳩十)は仕事に関しては、厳しい水準を島尾に要求したらしい。島尾はこれに応え、熊本商科大学(現熊本学園大学)に出向いて司書講習を受けて司書資格を習得している。

 島尾の家族が昭和50年まで住んでいた官舎は分館の敷地内にあり、私が訪問した翌月には取り壊しになる予定ということであった(後に保存する方向に変更)。
 ちなみに、彼には妻ミホとの間に一男一女をなしたが、長女マヤはのちに成人して鹿児島純心女子短大の図書館司書となった(2002年死去)。親子2代にわたる図書館司書である。

 島尾は、館長としても強い信念をもって活動した。郷土資料の蒐集には特に力をいれ、立派な資料目録を刊行している。年1回の研究会報発行を継続し活発なる研究活動の成果に鑑み、昭和42年「奄美郷土研究会」が「第19回・南日本文化賞」(南日本新聞社)を受賞する。これらの活動に刺激を受け「瀬戸内郷土研究会」(瀬戸内町)「徳之島郷土研究会」などが結成されていく。これらの活動が、「琉球弧文化圏」論や後の「ヤポネシア序説」へと展開を見る柱石となるのである。
 実は、島尾は「ヤポネシア」という概念を発想したのは、館長時代に琉球弧としての島々を講演などで廻るうちに思いついたといっている。与論、沖永良部、徳之島などの離島も大島分館のサービス範囲であったことから考えると、この説明もあながち韜晦とはいえないだろうし、つまるところ図書館長としての活動が、島尾の文化人的素養を大いに触発したということなのである。

 一方、当時としては先駆的な日曜日開館や住民の読書活動支援などに全力にあたり、離島の教育委員会や公民館を通じた図書の貸借、港の待合室や船内での読書室の設置活動に力を注ぎ、これらを支援するため時には自ら船に乗って離島への移動サービスに尽すなど、日本の離島を抱えた地域における図書館活動のあり方に影響を与えている。(『図書館人物伝』)
 日曜開館などは沖縄における琉米文化センターのそれを想起させるが、港の待合や船内読書室などへの配本は島尾の独創であろう。図書館法第3条第5項は「分館、閲覧所、配本所等を設置し、及び自動車文庫、貸出文庫の巡回を行うこと」となっているわけで、島尾の行ったことは法に基づく一般的な活動の一環であったとも言えるのである。 
 島尾は昭和50年まで17年間奄美分館長を歴任し、椋に遅れること9年にして定年をもって職を辞している。椋も島尾も、かたや動物児童文学、かたや純文学と分野は違えども、ともに文学に身をささげながら、図書館人としても一流の活動をなしえた。この様な島尾の活動の足跡がこの島に残っていないわけがない。

≪現在の奄美分館≫
 奄美分館の話しに戻るが、現在この図書館の最大のイベントはおそらく「ネリヤカナヤ創作童話コンクール」であろうと思われる。(「ネリヤカナヤ」とは、奄美の方言で「海のかなたの楽園」の意味。)数年前分館に赴任した指導主事の発案で、子どもたちの読書意欲を喚起するための創作文学コンクールを全島で始めようと呼びかけ、瞬く間に広がったという。毎回300~500件の応募があるとのことである。募集するのが感想文ではなく創作文学というところに「ネリヤカナヤ」の独創があるが、人口10万に満たないこの島においてこれだけの数の応募があることに驚きを禁じえない。作品を見ると応募者は小学生から高校生にまで及んでいる。低学年の作品に島の民話や自然を色濃く反映した作品が多い。

 その他、予算削減で停滞しがちの昨今の図書館活動ではあるが、この図書館は誠に元気はつらつとしている。
「奄美ならでは学舎」は、平成18年度から赴任の有馬現分館長の発案で始まった連続講座である。予算措置はゼロであるが、島を愛しさまざまに研究を重ねている識者を招き、島の自然、産業、歴史、民俗、文学、島唄、芸能などについて講演してもらっている。
 また、狭隘なスペースをものともせず、高校生のための「進学支援コーナー」や大島地区のビジネス活性化のための「ビジネス支援コーナー」を設置している。
 この島の誰もが聞いているという、有線放送に毎月図書館アワーを設け、新着案内や職員の朗読による民話の素話しを放送してもらっているという。
 もちろん島尾が心血を注いで収集した郷土資料や、「奄美郷土研究会」もしっかりと生き残って活動している。

≪ふれあい読書フェスタ≫
 『鹿児島県立図書館史』によれば、奄美分館では昭和55年から「朝読み、夕読み」を提唱した結果、本を読むグループが大幅に増加し現在に至っているとある。
 同書の記録によれば、昭和34年から郡内に19箇所の貸出文庫出張所を設け、3ヶ月に1回の頻度で35冊を1組にし、希望組数の定期配本を始めたとある。昭和36年度の実績は9箇所であったが、その後規模冊数ともに改善を図り、昭和57年度からはじめた「学校、地域、家庭の三者一体を軸とした『かごしまの子、朝読み・夕読み』推進運動」により昭和60年度には、読書グループが(一般)読書グループ195、朝読み・夕読み230、親子読書79までに成長を遂げたとある。人口比からして読書会数500という数字は、単純に考えて尋常な数ではないだろう。

 昭和54年度には、第1回奄美地区読書普及研究会が与論島を会場に開催され、読書グループの経験交流。共同学習が行われるようになる。平成に入ってからは「ふれあい読書フェスタ」と名を換え交流の規模も大きなものとなった。
 また、読書優秀団体表彰と「ネリヤカナヤ創作童話コンクール」の表彰がこのフェスタの中で行われるようになる。奄美版図書館大会といっても過言ではないが、読書運動を背景としたこのような大会がこれだけの規模で今なお続いていることに驚きの印象をぬぐえない。
 「ネリヤカナヤ創作童話コンクール」への応募数も、このような全島的な読書運動の広がりを背景に必然的に生まれた数値だったのかと納得がゆくわけである。
 このような、図書館の盛況ぶりは記録からすれば、島尾の退職後になって花開いたものではある。しかし、彼の努力なくしてその後の隆盛はなかったのではないだろうか。

≪夢の県立奄美図書館の完成間近≫
 平成21年4月には、放送大学も入居予定となる鉄筋コンクリート造3200平米の鹿児島県立奄美図書館が開館する予定である。もちろん初代分館長島尾敏雄を記念するコーナーも設置される予定である。
 東京で病み疲れた妻との生活を転地という思い切った形で転換させる為に、妻との出会いの地に近い島に移り住んでみた結果、島尾敏雄は偶然といってもよいタイミングで図書館長という安寧の職を見出した。やがて、その安定は東京での凄惨な体験を文学に昇華させ、成果物たる『死の棘』を書かしめた。島尾夫妻と二人の子が20年間にわたり、生きることへの再生と家族愛をはぐくんだ、そんな不器用で生真面目な図書館員家族の生き様を見つめてきた図書館が、いまようやく全島民の誇りと期待を担ってリニューアルオープンの時を迎えようとしている。
半世紀にわたる鹿児島県立奄美分館の歴史が、いよいよ大輪の花を開こうとしている。 

≪愛の瀬戸内町立図書館≫
 伊藤松彦は国立国会図書館を定年を待たずに53歳で退官後、鹿児島短期大学で図書館学を講じ始める。1976(昭和51)年のことである。前任者は、元徳島県立図書館長蒲池正夫であった。当時ライバル校の鹿児島女子短大には、椋鳩十が同じく図書館学を講じて健在であった。
 1979年、長崎純心短期大で図書館学を講じ始めた平湯文夫の呼びかけで「九州の図書館づくりについて語り合うつどい」が雲仙で行われる。伊藤はそこに参加している。「語り合うつどい」はその後沖縄県の図書館人を巻き込んで、九州・沖縄地区の図書館振興の発信源となった。同じ年「鹿児島県社会教育学会」が結成され、伊藤はこの会の結成会員として参加。
そんな中で、1980年鹿児島で全国図書館大会が開催され、県立図書館新館完成と元館長椋鳩十(久保田彦穂)の日本図書館協会からの表彰が重なり、当時の鹿児島県図書館界はお祭り気分にわいたことであろうと思われる。
 伊藤は、県社会教育学会に集う研究者らの協力を得て1984年『農村の暮らしと学習・情報要求』を日本図書館協会から上梓する。これは、彼自身が助言者として開館(1980年)にかかわった沖永良部島和泊町立図書館の活動を通して、農業・離島地区における図書館活動の可能性を実証調査した記念碑的報告書であった。
以上の経過は、図書館問題研究会機関誌『みんなの図書館』に伊藤自身の執筆で連載した「大またで歩く」に詳しく載っていることだ。

 このような、気運の盛り上がりのなか与論島に図書館ができる(1984年)。また、浦添市立図書館の後に続く沖縄本島での、具志川、石川、勝連、宜野湾などの市立図書館建設ラッシュが続き、その勢いは1996年当時まだ村であった豊見城村に図書館をつくらせ、糸満市立図書館およびそれ以降の町立図書館などの建設へとつづく、沖縄における図書館建設の止まらない流れが作られたのである。

 瀬戸内町立図書館の設立は、1990年にできた石垣島の図書館に続く奄美群島を含む南島諸島弧の図書館づくりの輪の中で、1993年に出来上がったといっていいのではないかと私はおもっている。
 伊藤松彦は1996年の講演で、「鹿児島県では大島郡奄美の図書館が先進をいっている」という趣旨の発言をしている(『鹿児島の図書館 内と外』)が、瀬戸内町立図書館はその奄美大島にある7つの図書館のなかで一番大きな図書館であり、かつ2階部分には博物館施設である「瀬戸内郷土館」を持つ図書館なのである。

 瀬戸内町は名瀬から南へ車で1時間半の峠越えの町である。町立図書館は町の中心地区である古仁屋(こにや)の港近くにある。島尾が活躍した時代はおそらく船で移動したのであろうか。
 島尾が戦時中赴任した加計呂麻島は自治体区分としては瀬戸内町に属する離島であり、戦後結婚し島尾婦人となったミホもこの島の出身である、彼の出世作ともいえる『出孤島記』はこの島に水上特攻兵器(震洋)基地司令官として駐屯し、何時指令されるかも知れぬ死出の出陣への恐怖心を孕みつつ、島の旧家の娘(ミホ)との愛をはぐくむ緊迫した日々を描く自伝的短編小説であり、その続編とも言うべき『出発はついに訪れず』も、すべてこの島での原体験にもとづいて書かれた私小説である。
 また、昭和20年5月に島尾は『はまべのうた』という童話を書きミホに送っている。この作品こそ、特攻隊長と島の娘との出会いというやや不自然な小説(『出孤島記』)の設定を溶かしてしまう鍵となる島尾の処女作といってもいい作品であるが、まさに二人を結び付けた絆が加計呂麻島で作られたのである。そのような事情から、瀬戸内町は島尾の死後この島に島尾の文学碑を建てた。
 私は、島尾の作品の核心がミホとの確執にあり、ミホも後にいくつかの小説を書いている事実を考えれば、島尾夫妻のための文学碑にすべきであったかとも思うのであるが・・・・・。(「島尾敏雄没後二十年記念シンポジウム録」)

 瀬戸内町立図書館では、自動車文庫をこの離島にも展開している。町内巡回ポイント40箇所のうち22箇所をこの離島内に設置している。また、保育所、学校、読書クラブなど20箇所以上に団体貸出しを、公民館、診療所、待合所、フェリーの船内に定期的な配本を行い、町の随所に閲覧できる環境を整えている。
 40の巡回ポイントのうち8つの集落に親子読書会が活動し、別に「プラネット」「パンの木」などの読書グループが本館内で活動中である。自動車文庫を離島に巡回する際は、島尾と同様フェリーに車を載せ職員も車とともに大島海峡を渡るのであるが、このような全町民へのサービスを徹底する姿勢には島尾敏雄の残した業績を踏襲した気配があるのである。
 ミホ氏が島尾の死後、彼の個人蔵書をこの町の図書館に寄贈することに心動かした背景には、この図書館が海峡を挟んで島尾とミホの出会いの場と指呼の間に位置していること、島尾の図書館人としての志を引き継いだ活動の質がこの図書館にはあると確信したからであろうと私は想像するのだ。
 瀬戸内町立図書館では、ミホ氏から寄贈を受けた文献や島尾敏雄文献の収集家からの寄贈を加えて館内に島尾記念文庫を設け、日本の戦後文壇に一時代を築いた文学者の顕彰に務めている。                  
 なお、島尾敏雄文学碑は瀬戸町の表玄関古仁屋(こにや)港の対岸、加計呂麻島の呑ノ浦(のみのうら)地区の入江沿いの公園(かつての自爆艇基地)に設置されている。          

 観光めいた話しのついでにまったくの余談ではあるが、大島の民謡「島唄」出身の歌姫・元ちとせの出身地は、古仁屋から車で海岸線沿いの道を30分ほどいった嘉徳(かとく)という入江の集落である。また、寅さんで有名な「男はつらいよ」シリーズの最終作(第48回、紅の花)で、浅丘ルリ子扮するリリーと渥美清扮する寅さんが奇妙な同棲生活を送る「リリーの家」は、加計呂麻島の南端にある徳浜(とくはま)という集落にある。現在はどちらも観光地として有名になっているようだ。
  (この項、終わり)


付記:
 この論稿は、以下に示した諸氏とのインタービュー及び、その際にいただいた資料を基に作成しました。図書館および活動、人物などの評価はあくまでも西野の独断において行っており、インタビューのとは関係がないことを、念のため申し述べておきます。
この場をお借りして、インタビューに快く応じていただいた方々や、ご協力いただいた図書館員の方々に心より御礼申し上げます。

訪問期間(2008年4月):

鹿児島県立図書館奄美分館(有馬秀人分館長)
瀬戸町立図書館(澤佳男館長、泰司書)

参考文献:
『鹿児島県立図書館史』(鹿児島県立図書館 1990)
『要覧 平成19年度』(鹿児島県立図書館奄美分館 2007)
『島の根』No.44(鹿児島県立図書館奄美分館 2008)
『第5回ネリヤカナヤ創作童話受賞作品集-奄美の小さな童話作家たち』
(鹿児島県図書館協会奄美支部 2008)
『平成19年度 図書館報』(瀬戸内町立図書館 2008)
「島尾敏雄没後二十年記念シンポジウム録」『瀬戸内町立図書館・郷土館紀要』第2号
(瀬戸内町立図書館・郷土館 2007)
『図書館人物伝-図書館を育てた20人の功績と生涯』
(日本図書館文化史研究会  日外アソシエーツ 2007) 
『南島通信』(島尾敏雄 潮出版社 1976)
『ヤポネシア序説』(島尾敏雄 創樹社 1977)
『鹿児島の図書館 内と外』(まちづくり県民会議 1997)
『みんなの図書館』No.336(図書館問題研究会 2005.4)
『みんなの図書館』No.339(図書館問題研究会 2005.7)

イーマールのこころ-沖縄の図書館を巡って

はじめに
 沖縄では、古くから沖縄人の心を象徴するといわれている言葉があるそうである「イーマールー精神」(協働・互助の精神)や「イチャリバ チョーデーの精神」(人類皆兄弟の精神)がそれであるという。沖縄には集落ごとに作られた字公民館あるいは集落公民館(法的には公民館類似施設)が伝統的に発達してきた。現在900館近くに上る公民館のうち公立公民館(多くは中央公民館)は40であり、その他は集落公民館であると考えられている。(『民衆と社会教育』)
 司馬遼太郎は『この国のかたち』で、鹿児島・薩摩藩における「郷中(ごうちゅう)」と呼ばれる独特の青年組織の働きを分析し、幕末の薩摩藩における草莽の志士たちにおける藩内での西郷隆盛の独特の吸引力の淵源について、その因を「郷中」との関係で述べている。そして、この「郷中」は台湾の少数民族から日本の西日本一帯にかけて伝統として引き継がれた民俗的文化ともいえる「若衆宿」を藩の士族政府内の伝統として改変、継承たものだと分析している。沖縄における集落(字)公民館の発達はこの「若衆宿」がこの島において公認された結果の産物ではないかと、私は想像をたくましくしている。
 
 1972年の沖縄の本土復帰までの間、戦後の社会教育と図書館の公的施設は、5つの琉米文化会館(知念<後に那覇>、石川、名護、宮古、石垣)において行われたといっても過言ではないであろう。そして、会館の主柱的活動も図書館に置かれていたといっても過言ではない、というのが私の感想である。
 日曜開館、夜9時半までの開館、貸出しの無制限・2週間、本ばかりではなく雑誌、新聞、レコード・フィルム、紙芝居の収集にも力を入れた。会館で直接島民へのサービスに当たった職員は、現地で雇用された日本人であった(1958年の時点で最高時5館全体で68名の職員が雇用された)。彼らは、特に小学生から若者層に対する利用を積極的に図った。移動図書館や巡回文庫の館外サービスに努め、行事部(社会教育)と連携して16ミリフィルム映写会を頻繁に開き、図書館週間・読書週間には行事を積極的に行い、公民館や学校図書館への配本支援を行っている。さらに、留置場やハンセン氏病治療施設への配本サービスにも積極的だったことは特筆すべきであろう。
 設立趣旨から押してアメリカ式民主主義のプロパガンダおよび反共主義の砦としての出先機関という基本的性格はあるものの、多くの沖縄の青少年に図書館に対する積極的な印象を植え付けた。

≪旧具志川村における図書館活動≫
 琉米文化会館の行った図書館サービスの残像と集落(字)公民館における青年部活動が、マッチングしそれが公立公民館(中央公民館)の設立さらには図書館の設立運動へと発展していった典型例が、具志川市における活動であるといえよう。1959年具志川村青年連合会文庫が設立される、書架2台、蔵書250冊からのささやかな出発であった。これは、村おこしの拠点として設立された字公民館内に作られた。
 やがて、青年会の教養部が中心になって村役場内に図書室をつくり、司書を配置した。さらに教育事務所の建物を譲り受け、これを村公民館図書室として展開していく。この図書室は、25ある行政区のうち集落(字)公民館のある20の地区に村公民館の図書を巡回させる「巡回文庫」サービスを行うようになる。巡回文庫は1回50冊の図書をセットし、村のワゴン車で毎月定例の巡回日に順々に字公民館を回るというシステムである。一方、村公民館図書室の書架も開架式とし自由に閲覧可能とした。
 村公民館は村から市への昇格に伴い中央公民館となり、図書室は自前の自動車図書館「ひまわり号」で市内各所を巡回するようになる。そして、市制20周年を契機にこれらの活動が認められ市立図書館設立への大事業へとつながっていくのである。
 具志川市は、やがて近隣の石川市、勝連町と合併しうるま市となるが、中央図書館は旧具志川市の図書館である。ちなみに、石川市には復帰前まで琉米文化会館が置かれていた。米民政府の直接的サービスを受けられた旧石川市を横目で見ながら、具志川村青年部の若者たちは、自らの手で公民館図書室を運営し、やがて図書館として自立させていったのである。*

 図書館設立にあたって、専門的知識をもつ職員が手薄であったため、先行した浦添市立図書館の支援を受け、また日本図書館協会の関係者から公私にわたる助言を仰いでいる。その結果図書館の設計は、鬼頭梓設計事務所が担当し、運営についてもきわめてオーソドックスな運営を行っている。このような経過からして、この図書館における館長および専門職員の計画的雇用こそ、これまでの市民の努力を花開かせるもっとも喫緊の課題であることがうかがい知れる。
 
 これらの経過を『沖縄の図書館』に執筆した玉寄長信氏の次の言葉を読むにつけ、我々は現代の図書館にとって何が本当にかけているものであるのかという命題に思い至るのである。
 日本一の貧乏県下で学校図書館を立ち上げたPTA.パブリックな図書館活動を開始した青年団。ゆたかになったから「心」を求めるのではなく、貧しくても、いやまずしいから、むしろ貧しさを超えるために、「こころ(魂のある知識)」を求めた人びとの存在を忘れたくないものである。当時のことを調べたり、当時の話を聞くたびに、ひしひしと伝わってくるのは地下水のように底流する「知的な餓え」のようなものである。

 生沢淳子によると、石川琉米文化会館は、沖縄中央図書館石川分館の裏手に建設され、広さは450平米、閲覧席80、職員は4名(内司書1名)であった。特筆すべきは、自動車文庫が遠い集落や公民館にまで活動範囲を広げ、映写会、幼稚園のための紙芝居や童話会、30箇所の巡回文庫へのサービス、500冊の本を積んで8箇所の公共団体を巡回し1ヶ月の本の貸し出しを行っている、と記述している。(『沖縄の図書館』)
 石川市の隣村具志川村の青年たちが、琉米文化会館の図書館部の活動を見習いながら、図書館への夢を育んで活動をつづけたことが十分に想像される記述である。

≪図書館法、学校図書館法≫
 沖縄における公立図書館の展開が本土との比較において、著しい遅れをきたした理由を玉城盛松は、沖縄におけるアメリカの占領政策にあることを指摘している。すなわち、社会教育法が、困難な運動の成果であるとはいえ、1958年に沖縄において立法化されたにもかかわらず、「図書館法」の米軍当局による認可が裁可されなかったのは、琉米文化会館の図書館部の宣撫的政策をリードしてきたことへの評価と表裏の関係にあるというのである。(『沖縄の図書館』)

 このことは、占領下において学校図書館法が昭和40年に立法化されていることからも伺える。本土に遅れること10年をこえてではあるが、沖縄においては学校図書館法が図書館法に先んじて成立するのである。学校図書館法の成立は、自治体における学校図書館設立運動に大きな励みとなり、PTAなどを母体とした学校図書館への職員配置が各地で行われるようになる。やがて、PTA雇用職員の公職化が各地で進められるようになり、県教育委員会のモデル校指定施策などの後押しもあって、本土復帰時において沖縄は学校司書配置においては全国に先んじたほぼ全校司書配置を実現した先進県となるのである。
 一方、本土においては「学校図書館法」の成立が沖縄に先んじてあったにもかかわらず、附則2「学校には、・・・当分の間司書教諭を置かないことができる」という条文のために、司書教諭の配置ばかりでなく司書の配置もすこぶる遅れることとなる。
 法律を制定していながら、法律自体が制度の内実化を阻んだ例として後世に語り継がれるべき事例である。一方、法整備が遅れたがために施設の設置が一向に進まなかった沖縄における公共図書館の事例も、大いなる教訓としてこれまた後世に語り継がれるべき事例となるであろう。

 ≪戦後、図書館復興事業≫
 アメリカ占領下においても、日本本土からの読書支援運動は根強く存在したことを忘れてはならない。本土復帰を2年後に控えた1970年、沖縄図書館協会総会に当時日本図書館協会の常務理事であった酒井稊(やすし、元国立国会図書館)が招かれ、その際沖縄の図書館の惨状とも言える現実を見、酒井は翌月の全国図書館大会(廣島大会)で「沖縄に本を送る運動―沖縄図書館界に対する援助アピール」をおこなう。このアピールは大会で採択され、全国から献本運動への賛同を寄せられ、13000冊を超える図書の寄贈が国立国会図書館などを通じて行われた。
 また、国庫補助として昭和38年以降公民館、図書館の図書整備を行う目的で補助金交付が本土復帰まで続けられ、15万冊以上が送付された。また、多くの個人団体が継続的な寄贈を続けた。本土復帰後もこれらの努力は続けられる。財団法人沖縄協会を母体とした「沖縄子ども図書センター」は本土の各地の小学校などを回って寄贈本の収集に努め、沖縄における離島や僻地の学校を中心に配本活動を続け、延べ60万~70万点の資料を配布したという。
 
 新しい県立図書館の設立計画は復帰の翌1973年には全体計画を策定した。その後、総合文化センター建設構想が浮上し、図書館建設は一時挫折の憂き目を見ながらも、1982年国庫補助3億3000万円を含む、総額21億円を越す予算をかけた新県立図書館の建設が実現する。
 当時公立図書館は、県立図書館(本館、宮古、八重垣分館)、琉米文化会館を引き継いだ、平良文化センター、石垣文化会館、那覇市立図書館の他は、那覇市立久茂地(くもじ)分館、名護市立崎山図書館、本部町立図書館、知念村立図書館、渡名喜村立中央図書館(人口500人の島、床面積220平米)だけであった。(崎山図書館は、もとは名護出身の企業家山崎氏が建物と資料を市に寄贈したもの)
 
 自治体における公立図書館がほとんどないともいえる状況での県立図書館は、自治体に替わり通常の図書館サービスを受けられる体制を想定しつつも、将来的にはこれらを支援する活動への転換を図れるよう配慮したものとなった。このような、一見相反する計画目標を立てざるを得なかった背景に、県立図書館に隣接して琉米文化会館の建物と資料を引き継いだ那覇市立図書館の存在があったことは否めないであろう。
 この那覇市立図書館は、実は現在も琉米文化会館の施設をそのまま使用している。建物の1階部分が図書館であり、2階部分は公民館である。いずれの施設も今となっては狭隘を画で書いたような施設ではある。
 那覇市立図書館は1979年から1984年の定年退職まで館長であった外間政彰(ほかませいしょう)時代に、13館図書館構想を計画しこれを市の方針とさせた。外間氏はこれに先立ち、久茂地分館を公民館の一角につくり『市民の図書館』の貸出しを柱とするサービス方針を体現したちまちにして分館の貸出し実績が本館を抜いてしまうという、いまや伝説化した実績をバックに教育委員会を説き伏せ、この構想を認めさせてしまったという。この13館構想の中には、当然新中央図書館建設構想も含まれていたのである。

 那覇市は、この計画を下敷きに現在は8館の図書館でのサービスを行っているが、懸案の新中央図書館はまだまだ先のようだ。現在の中央図書館は、牧志駅前に展開中の「牧志・安里地区市街地再開発地区」の再開発ビルへ近く移転することが決まっている。2階にある中央公民館とセットでの移転であるが、新中央図書館はそれよりさらに数年後?米軍基地返還後の跡地を活用して那覇市の西海岸一体に展開される新都心地区へ、より広い土地を求めて新築することを視野に置いているとの説明を受けた。
県立図書館建設当時のアンビバレントな計画は、多くの自治体で図書館が建設されるに至った今日においては解消されているが、当時においては那覇市をはじめとする県下の図書館事情を汲んでの背景があるとの見方をするのが妥当であろう。

≪沖縄県立図書館の受難≫
 沖縄には、明治・大正期偉大な図書館人がいた。沖縄県に県制がしかれるようになったのは明治42年である(「琉球処分」といわれる沖縄での「廃藩置県」は明治10年)。
 その翌43年に沖縄県立図書館が開館した。蔵書数4500冊余り、職員はわずか3人の図書館であった。この図書館の初代館長は後に「沖縄学の父」といわれた伊波普猷(いはふゆう)であり赴任当時34歳の若さであった。彼をはじめ、歴代の館長は特に郷土資料の収集に力をいれ、沖縄の歴史民俗文化に関するコレクション5000冊を誇るにいたった。
 後に柳宗悦をして「地方的特色ある図書館としては、慥かに日本随一のものであった。どんな沖縄学者も、この図書館を訪れることなくして正しい研究を遂げることはできない」と言わしめたほど、その名は全国にとどろいたのである。(「沖縄の人文」『柳宗悦選集第5巻』)
 民俗学者柳田國男は20年にわたる官僚生活に終止符を打ち民俗学者としての道を歩むと決心したとき、最初に面談に赴いた民俗研究者が当時沖縄県立図書館長をしていた伊波普猷その人であった。彼は、2週間ほど沖縄に滞在し伊波の示唆を受け沖縄各地に足を伸ばしている。帰国後、朝日新聞に「海南小記」を連載し成功を収める。民俗学者としての柳田國男の出発は伊波との交友なくしてはなかったのである。(『柳田國男全集1』)
 それほど、沖縄に関する文献は、完璧に近く、世にも貴重な収集であった。また、伊波の発信力は強烈であった。その後、県立図書館長は真境名安興、島袋全発などの郷土史家に引き継がれる。

 がしかし、宮本の文章は以下のことを伝えている。
その後図書館が郷土資料偏重のため疎まれる存在になったこと、結果沖縄戦ですべての資料が灰燼に帰すことに手立てを講じられなかった、と慨嘆しているのである。これを書かしめた『沖縄の人文』は昭和23年に上梓された。
 伊波自身は柳田の誘いもあり(一説には女性問題を指摘する研究もあるが)、1924(大正13)年館長を辞し沖縄学の創設に献身する。東京の国学院大学に招かれ、戦後を迎えるまで一貫して『おもろさうし』などの沖縄学研究に精力を傾注した。この県立図書館全滅の報に接し、絶望の極みの中で翌々年鬼籍に入るのである。71年の不遇の生涯であった。

 県立図書館(琉球政府図書館)の再建は困難を極めたが、琉米文化会館図書館部の活動を横目に見ながらも困難を極める中、1965年になりようやく「那覇政府立中央図書館」の設立となる。法人東恩納(ひがおんな)文庫からの貴重資料3300点余の移管を受けての開館であった。その後、増築されながらも床面積1800平米、蔵書数30000冊、職員数13名の小所帯であった。県立図書館の本当の意味での再建は本土復帰後10年を経て実現する、1983年であった。
 今日、沖縄県立図書館が郷土資料の収集に特に力をいれ、相当の予算を割いて努力を傾けている背景には、このような歴史の蓄積とそれを失してもなお多くの県人や研究者をしてその亡失を惜しませた、かつての輝かしき郷土資料コレクションへの追慕の精神が生きているからであろうかと思われるのである。例えば、入手可能なものについては、購入または寄贈によるかを問わず保存、閲覧、貸出しの3部を必ず確保するということもそれに当たる。


 次に、筆者が実際に見学した図書館であり現在の沖縄の図書館の現状をある意味では、典型的に示している図書館を紹介したい。

≪浦添市立図書館と沖縄学研究≫
 浦添市立図書館は、沖縄県下において、最初に『市民の図書館』『中小都市における図書館の運営』を体現した図書館といえる。この図書館の開館は、当時「浦添ショック」という電撃的な図書館波及効果を近隣の自治体に与えた。
 1985(昭和60)年開館したこの図書館は、館長以下職員9名、臨時6名、嘱託5名、パート職員13名の体制で運営をしている。資料費1700万円、貸出し36万点(市民当り3.4点)沖縄県内においては、まず第1等の実績を残す図書館である。長崎純心女子短期大学元教授の平湯文夫氏をして、1985年10月に「本土にも例を見ない美しい図書館」「これでもう沖縄全島の図書館づくりのレールは敷かれてしまった」(10月26日毎日新聞西部本社版「文化」欄)とまで言わしめた図書館である。
 具志川市立図書館(うるま市立図書館)職員であった玉寄長信氏は、開館準備が「県内の図書館状況に活を入れた浦添市立図書館ショックの直後の取り組みであった」と回想している。
 
 建物の前面にはガジュマルの大木が図書館の主(ぬし)のように利用者を出迎える。開館当時の写真を見ると図書館のぐるりには緑らしいものはなかったが、現在は「ウッソウとした」という表現がぴたりとあてはまるほどの緑濃い前庭となった。その奥に図書館の玄関がある。生憎と私が訪問した日は、コンピュータのリプレイスによる臨時休館中で図書館内に利用者はいなかったが、玄関前のガジュマルの木陰で数名の学生が読書を楽しんでいた。
 
 開館時、日本図書館協会「建築賞特定賞」を受賞した。この年は第4回目の建築賞であったが、優秀賞は藤沢市総合市民図書館、特定賞は駒ヶ根市立図書館、そして浦添市立図書館であった。
 この図書館を準備するに当たり、当時の浦添市は初度調弁資料費として異例の7,800万円を計上した。それにたいし、自らの米寿のお祝いに当てる予定の費用100万円を図書館に寄付した市民も現れ話題となった。文化を大切にする市の幹部の姿勢に市民が篤志を持って答えたエピソードがある。

 正面入り口とエントランスを中心に、左袖に一般書架室とレファレンス室、右袖に児童室を置く完全分離型設計。この思想は、日野市立中央図書館に通ずるものがある。一般開架室は完全吹き抜けになっており、従ってその天井は2階丈分の高さになる。この部屋の袖部分は大人の身の丈より高い回廊となっていて、壁に沿って書架が配置されこれは多分に公開書庫的な意味を蔵していると私には受け止められた。
 開架書架室は外光の取り入れ方、閲覧席の配置、天井や内壁のデザインなどがよく計算され、かつロココ調を思わせるような重厚にしてシンプルな造作となっており、図書館関係者の間では幾度も写真でお目にかかるほど有名となった光景がこれなのだ。
 私も、薄明かりが手元を照らす閲覧席に座ってみたが、とても心落ち着く気分を味わえた。『沖縄の図書館』で、名護正輝氏が開館準備当時の議論に「この図書館は、書遊園をめざす」という意見が野太く支持されたという趣旨のことを書いていたが、この閲覧室にいると「書遊園」とはよく言いえたと思えてくるのである。この環境この雰囲気のなかで、好きな本を紐解いてみる贅をしばし満喫したいものである。

 2階は事務室、沖縄研究室である。沖縄学研究室は、当時の市長の強い希望により1990(平成2)年に開設、現在蔵書20,000点を数える。浦添域内を含む沖縄全土の地誌資料の収集、および移民史に関する資料の編纂にあたる。専任スタッフ3名(内嘱託2名)が置かれ、講座の開催(年5~6回)、県内外からのレファレンスへの対応などにあたるほか、近世日本列島流通関係資料として近世史研究において重要な位置を占める琉球王国評定所文書の校訂を積み重ね、『琉球王国評定所文書』全18巻を上梓している(1998年~2003年)。
 同書は、平成14年沖縄タイムズ出版特別賞を受賞している。担当者のこの研究室の資料収集へのこだわり、学としての沖縄研究事業を牽引しているという自負は並大抵のものではないことを感じる。
 この図書館では、平成元年から『浦添市立図書館紀要』を発行、平成15年まで15号の発行回数を数えるが、平成16年からは、『美術館紀要』が加わり、図書館、文化研究、美術・芸能・工芸、文化行政を網羅した『よのつぢ』*となり、再出発をしている。このように、図書館を含む紀要の発行が継続的に継承されてきていることに、この自治体の文化に対する志の高さを痛感せずにいられない。

*「よのつぢ」とは琉球の歌謡集『おもろさうし』に出てくる古語に因んでいるということである(世間や現実の頂上、最上の意)。『おもろさうし』で思い出したが、柳宗悦氏によれば、沖縄地方の方言が現在においても日本の古語である大和ことばの意味も発音も継承している部分が多く、『おもろさうし』などの研究が進められたことにより、『万葉集』の研究などでこれまでまったく意味の分からなかった部分に大いに光が当てられるにいたった、としている。(『沖縄の人文』)沖縄文献研究が、日本列島の歴史、民俗の淵源を探求する上で重要な地位にあることの一端が理解できよう。

 さて、図書館の購入雑誌数も250以上ある。そして、よく保存されている。この辺にも、沖縄県下における市立図書館の嚆矢としての自負が感じられる。新聞も一般紙、地方紙のほか各政党機関紙もそろっている。
特設コーナーとして先にあげた沖縄学研究室のほか、アメリカ情報コーナーを持つ。
アメリカ情報コーナは浦添市内にあるアメリカ総領事館の協力により平成16年から開設。内容は領事館などからの寄贈資料(1400点)ほか新聞1誌、雑誌11誌が中心となっている。

 活発な館内でのサービスのほか集会活動も、おはなし会(月3~4回ボランティア、毎月1回職員)、人形劇年1回、映画会(夏・春休み中心で10回)、展示会(一般、児童向け毎月)講座年2回。演奏会、ジャズコンサート、在留アメリカ人による英語教育セミナーと、誠に盛んである。ブックスタート事業(6回)、学校訪問・施設見学受け入れ(194名)、職場体験・一日図書館員などを展開している。

 自動車文庫「としょまる」は30ステーションを巡回。(巡回頻度月2回巡回)ステーションの内訳は、学校、公民館、団地・公務員宿舎、スーパー駐車場など実にきめ細かい。週5日の巡回日が水曜~日曜日と利用者本意に設定してある。

 これらの事業を分析するだけでも、相当なる教訓を得ることができると思われる。 なお、第5代館長(平成11年4月~12年3月)又吉盛清氏は、図書館員時代に芥川賞作家(ペンネーム、又吉栄喜)となったことで当時話題となった(平成4年、第114回芥川賞、受賞作品『豚の報い』)。現在は、沖縄大学教授のかたわら浦添市立図書館移民史編集委員を歴任している。

 浦添市は、市域の西4分の1ほどを米軍基地が占めている。また、企業誘致が成功し大手企業の立地による固定資産税収入、基地関係助成金などを含め財政的には比較的恵まれているという。平成16年度の財政力指数は、0.71で県内ではトップクラスである。(沖縄県は0.20)
 図書館のある地区は市民会館(てだこホール)、福祉センター、運動公園、美術館などが虔を競う「カルチャーゾーン」と称されている地域である。
 浦添市美術館は、主要幹線道国道330号線沿いにあり、外観デザインは威容を誇っている。この美術館は、平成2年に日本初の漆芸専門美術館・沖縄初の公立美術館として誕生した。設計は、高円宮邸、世田谷美術館などを担当した内井昭蔵氏である。図書館ばかりでなく、社会教育のさまざまな分野に力を入れている様子が窺える。

≪豊見城(とみぐすく)市立中央図書館ー日本一人口の多い村の図書館≫   
 「当時村の基本計画にも載っていなかった図書館の建設が、村長の強い指示で実施に向けて動き出したのは、1993(平成5)年であった。図書館の素地もなかった村に3年後には立派な中央図書館が造られることとなった。・・・私たちは、何から手を付けていけばよいのか皆目見当がつかなかった」と山内一美が後に書いている(『沖縄の図書館』)ように、この図書館の建設は当時の村長の強いリーダーシップのもとに建てられた。
 先例としては、具志川、宜野湾、浦添、石垣などの図書館がすでにできており、学ぶべき成果を残していた。しかし、これらの図書館はみな市立図書館である。村立図書館としては、近隣の知念村立図書館があるにはあるが、300平米前後の図書館である。首長が目指す図書館は市立図書館に比肩できるほどの規模であった。しかも、村立図書館でありながら中央図書館という名を冠しているのである。他の図書館をも視野に入れてなくば、中央という名称は出てこない。(渡名喜村立中央図書館もあるが、人口500人の島の200平米ほどの図書館であり、ここで中央とつけるのは気宇広大すぎるともいおうか)
 
 はたして、開館した1996(平成8)年度の資料費が8800万円も査定されたということもあって、開館して1年目で住民当たりの貸出しが10冊を超えた日本一の村立図書館として当時図書館界でも話題となった。当初準備要員の不足が危惧されたが、開館時の職員体制は5名、嘱託2名、臨時職員6名が配置された。(現在正規職員は2名、内司書1名、他の多くは嘱託、臨時雇用)
 村として当時これだけの手当てが何故できたかいう疑問もわくが、調べてみると当時の豊見城村は村としては日本で1、2を争うほどの人口を抱えており、平成14年には村からにいきなり市に昇格している。現在の人口は、5万人を悠に超える。つまり、当時から市となるべくそれだけの人口を抱えていたのである。当時の村長にしてみれば、財政的な裏づけを計算しての決断であったと想像される。平成18年には開館10周年を迎え、大いに記念行事を行い、其の甲斐あってか、一時の盛況振りから比べると停滞気味の利用状況にやや光明が見えてきた気配がある。

 現在の館長當間氏は、数年前図書館の指定管理制度適用を批判する立場で、市民の力をよりよく活用した図書館運営のあり様を提案し、それが認められるところとなり市からの依頼を請け館長(嘱託)をされている。市民との連携、学校との連携にも意欲を燃やし活躍しておられる。(図書館運営を支える主柱が嘱託契約の司書であるという現状から、通常5年の雇い止めを延長した特別措置を市に認めさせている)

 前述の、10周年記念行事の内容を見れば、市民参加に根ざした図書館の姿が、眩しいように伝わってくる。
  
☆ 慰霊の日関連行事 6月16日~29日
平和を考える朗読の集い 40名
ワークショップ INTER SPACE 「沖縄戦で亡くした人の数 飛行機をつくる」 50名
市内中学生による「戦争と子どもたち」作品展示
☆ 図書館まつり 11月12日(日)
9:30 オープニング 市青年会によるエイサー/くす玉割り/表彰、図書寄贈式
10:00 バーブティー・サービス、ハーブ苗&ラン苗の無料配布
 「しおり」(押し花)配布(カウンター)
14:00~16:00 記念講演『図書館へ行こう』(琉球放送、土方浄氏) 80名
<展示の部>
儀間比呂志原画展
小学生による作品展「未来の図書館」

≪図書館のDNA≫-「イーマールー」と「イチャリバ チョーデー」
 伊波普猷は県立図書館長時代子どもたちのためにストーリーテリングを行い、あまりの好評のため自宅に「子ども会」を移動し協力者を得てイベントを続けたというエピソードを残している。当時の図書館は、多くの子どもたちを受け要れるだけのスペースを持たなかったのだ。(『民衆と社会教育』)
 喜納勝代(きのうかつよ)は、このような伊波の子どもへのまなざしをもつ遺伝子を継承した一人であった。彼女は国際通り裏という那覇でも一等地の地区に、20平米足らずではあるが私設の文庫を開設する、1976年10月である。お菓子やコーヒーをみんなが持ち寄り、時には講演会や演奏会も催す明るい「文芸サロン」的な雰囲気を持った文庫となった。厳しい財政的なやりくりのなか、南アフリカや南米の子どもたちへの支援も行った。まるで「イーマールー」(協働・互助)「イチャリバ チョーデー」(人類皆兄弟)を人生そのものとしているような人である。その後、外間政彰がこの地区に久茂地分館を開くのは1981年である。喜納の活動に報いようとする外間の執念のようなものを感じないではない。

 彼女の活動はやがて、地元新聞の注目するところとなり、記者との交流の中で彼女の脳裏に沖縄の私設図書室や文庫を回り、それをみんなに紹介してみたいという欲望が沸く。当初、3ヶ月程度で完結する予定で始まった『琉球新報』の「町の文庫 村の図書館」という週1回の特集は、その後124回を重ね、3年間も継続することとなる。
 取材も執筆も彼女がひとりで行ったこのシリーズは、多くの読者を獲得し沖縄の図書館建設の機運を呼び覚ます起爆剤となった。シリーズは1983年から1986年まで満3年続けられた。個人文庫や図書館はもちろんであるが、児童館や公民館図書室、企業資料室、議会図書室、さらには浦安市図書館にも関心の目は向けられた。


 以下に、やはり『沖縄の図書館』で紹介された 「イーマールー」(協働・互助)「イチャリバ チョーデー」を地で行くような文庫の紹介を行いたい。

☆いぜな文庫
 本部町出身の伊是名(いぜな)夫妻が、教職を退官後1996年、自宅を建て増し20平米ほどの図書室をつくった。3000冊の本と閲覧席を設け開いた文庫。開館は朝7時から閉館は利用者がいなくなるまで。年中無休である。子どもの試験前には自宅部分まで開放し、夏休みは対応できかねるほどの利用があるという。まるで、松下村塾を思わせるような文庫ではないか。

☆人文図書館
 後に沖縄国際大学教授となった喜久川宏氏が、1960年ごろ(30歳前後)から約20年間那覇市内に開いた私設図書館。
 学生時代やアメリカ留学時代に収集した資料や民政府や県職員時代を通じて収集した人文関係資料5000冊を公開。なんと職業を持ちながらの図書館開館である。利用時間は毎週月~金の夕刻2時間。喜久川氏本人が講師となって、講座やゼミも開催した。喜久川宏氏自身は、留学後琉球政府通商産業局長、沖縄県企画部長、県観光開発公社専務理事などを歴任した。
 大江健三郎は、この人文図書館を見学したのであろうか。「ふたたび戦後体験とは何か」というエッセイの中で、この図書館をとりあげている。時期から察して『沖縄ノート』取材中のことであろうと思われる。
 大江は、戦後民主主義教育を受けた精神の流れが自分の思想の根となっていること、そんな自身を正直に語ることにより人々にそれを見せ続けるそんな生き方をしたいとのべながら、私蔵資料の公開(図書館)という表現手段を用い、若き青年時代沖縄本島と宮古地区との教育格差に抗し立ち上がった宮古人の精神を持続し表現しつづけている喜久川氏へ、エールをおくっているのだ。(『持続する志』)
 (この項、終了)


付記:
 この論稿は、以下の方々へのインタビューと参考文献などを基に西野の責任において、
纏めたものです。文中における、図書館及び活動、人物の評価については西野の独断によるものであることを念のため申し添えておきます。
 今回図書館を巡る調査に快くお応えいただきました方々に、この場をお借りして心よりの御礼を申し上げます。

訪問機関(訪問順):
豊見城市立中央図書館(當間美智子館長)
沖縄県立図書館(平安名栄喜館長、垣花副参事、玉木班長、宮城班長)
那覇市立中央図書館(森田浩次館長、天久主査)
うるま市立図書館(伊波正和館長、西平係長)
浦添市立図書館(津波清館長、森田係長)
参考文献: 
『沖縄県立図書館要覧 平成19年度』(沖縄県立図書館 2007)
「沖縄の人文」『柳宗悦選集第5巻』(春秋社 1980)
『沖縄の図書館-戦後55年の軌跡』(同編集委員会 教育資料出版会 2000)
『おきなわの社会教育-自治・文化・地域おこし』
(小林文人・島袋正敏 エイデル研究所 2002)
『民衆と社会教育-戦後沖縄社会教育史研究』
(小林文人・平良研一 エイデル研究所 1988)
『沖縄の図書館と図書館人』(山田勉 沖縄図書館史研究会 1990)
『街道をゆく 6 -沖縄・先島への道』(司馬遼太郎 朝日文庫 1978)
『沖縄の歴史と文化』(外間守善 中公新書 1978)
『柳田國男全集 1・解説』(ちくま文庫 1989)
『持続する志』(大江健三郎 文藝春秋 1968)
『浦添市立図書館紀要 No.1』(浦添市立図書館紀要 1989)
『よのつぢ 浦添市文化部紀要』創刊号
(浦添市立図書館沖縄学研究所 浦添市教育委員会 2005)
『豊見城市立中央図書館報(開館10周年記念行事報告』第2号
(豊見城市立中央図書館 2007)
『うるま市立図書館報』第3号(うるま市立中央図書館 2007)
『館報 2007』(那覇市立中欧図書館 2007)

「沖縄県立図書館」  http://library.city.urasoe.lg.jp/okinawa/okicon.htm  2008.10.3
「浦添市立図書館沖縄学研究室」
http://library.city.urasoe.lg.jp/okinawa/okicon.htm  2008.10.3
「浦添市美術館」http://www.city.urasoe.lg.jp/art/  2008.10.3
「沖縄県学校図書館雇用調査」
http://www.okiu.ac.jp/sogobunka/nihonbunka/syamaguchi/koyouchosa.pdf 2008.10.3

宮城県柴田町図書館の開館


5月29日(土)宮城県柴田町の図書館開館式に行ってきました。
この日は、柴田町図書館の開館式が行われた。西野は、開館に先立って行われた「柴田町に図書館がほしい!会」による会の新春交流会を兼ねた学習会の講師としてお招きをいただき、つたない話をしたご縁もあり、このたび開館式を見学させていただいた。
柴田町図書館は、平成9(1997)年の中央公民館基本計画の中に図書館が含まれることが盛り込まれたことから、設立が現実のものとなった始めである。
当時の構想は、総工費58億6千万円、図書館部分は12億円という町の財政的基盤を考えると、非常に大きな建物を想定するものであった。
平成11年度になり町議会は中央公民館の建設延期基本設計料の事実上の凍結を決定、「柴田町に図書館がほしい!会」(平成8年2月活動開始)は「柴田町図書館研究会設立」を請願、趣旨採択後14年に研究会スタート、16年に調査報告書「公立図書館ののぞましい姿」提出されるにいたった。
この間の一連の動きは実質的には中央公民館構想の見直しと、図書館単独施設建設への転換である。
この間、住民側の動きと並行し、生涯学習課による調査研究活動が継続される。
平成19年教育委員会内に設置された住民参加による「まちの図書館設置検討会」が20回にわたる
検討会かさね、翌年既存の生涯学習施設を活用した図書館設置を報告し、今回の開館につながった。
図書館単独施設設置から、既存施設活用への再転換である。

活用される既存の施設は、しばたの郷土館・ふるさと文化伝承館、図書館は伝承館の1階ロビーを埋めるような形で、専有面積
327平米が充てられた。ただし、伝承館内にあったITプラザー67平米はそのまま図書館内設備として活用されることとなった。

以上の経過を踏まえて、この図書館の特徴について少し書き残しておきたい。

ひとつは、この図書館があくまで暫定的な施設であるということ。将来は本格的な図書館へと衣替えすることを目指すということを建前としていることだ。
開館式において滝口茂町長はこのことを明言し、強調した。少なくとも、柴田町図書館研究会案への回帰を述べたものと私は理解した。
二つ目は、郷土館・文化伝承館という極めて特徴のある施設内にある施設であるということだ。この施設の中には、産業展示館、郷土資料展示館、齊藤博記念文庫、
茶室如心庵、芝生中庭などの相当なる費用をかけたと思われる施設群がある。町行政担当の方のお話では国の助成金による施設ゆえに大幅な改築は難しいということではあった。
三つ目の特色は、行政と住民との協力関係が非常に強いということだ。柴田町は、財政的には収入支出のバランスは悪くはないし自主財源比率も60%近い数値を示している、
現在の財政運営状況は健全化に向かっている。一方、実質公債費比率が21%と県下で2番目に数値が悪い。また、財政の弾力性を測る指標、財政調整基金基金の積み立ても
単年度1億円を切っており、相対的に下位で余裕のない財政運営をしいられている。これは、現在の財政運営は健全であるが、過去において大きな借金をしており、
これが現在の財政運営の硬直化を招いているという事実を意味している。
(http://www.pref.miyagi.jp/sichouson/宮城県総務部市町村課「平成20年度決算目で見る財政指標」)
このような、台所事情が苦しいなかにおいても、仮住まいながら図書館開館にこぎつけた背景には、現町長の並々ならない図書館に対する思いを感じ取ることができる。
また、それを支える「欲しい!会」をはじめとする町民の図書館設立を望む声の大きさがある。
開館式および記念イベントも2日にわたり、初日に行われたオープニングセレモニー以外は、ほぼ住民の手作りのイベントが目白押しであったことがそれを裏付けている。

柴田町図書館の今後
柴田町図書館は曲がりなりにも開館した。しかし、これは仮の図書館である。床面積300平米、3万冊の収容能力ということでは、到底町民の読書要求に答えきることはできない。
今後この図書館が、2000~2500平米という本格的な図書館へと脱皮できる支えとなる町民世論を作るためには、何よりも図書館利用者の数が多くなることが必要条件となろう。
現在、職員体制としては館長(兼務)以下副館長、職員2、嘱託職員1、臨時職員2という体制ではあるが、図書館経験を持つ職員は嘱託職員と臨時職員の計2名だけであると聞くが、少なくとも
正規職員3名のうち2名は司書資格を持ち、明確なサービス理念を共有できる体制を組んでゆく必要があろう。
町長は、司書を公募採用することの困難をうたうが、職員を司書講習に派遣し資格をとらせる手段も有効である。

次にサービスネットワークの形成であるが、町内には生涯学習センター3、農村環境改善センター1と比較的大きな生涯学習センター、そして3つの公民館があり、
それぞれに図書室を持っている。また、学生数2000の大学、高校、中学校3、小学校6、養護学校1、幼稚園4、保育所3、児童館5がある、その他診療所、福祉センターなど
地域施設は充実している。これらの施設への効果的な配本活動も図書館活動の重要な柱である。自動車図書館などの活用による効果的な読書推進活動が期待できる。

これらの地域活動を、行政側だけで展開することは出来ないし、かつ地域のことはその地域の施設職員や住民が読書要求の在り処をよく知っているはずである。
教育委員会組織を乗り越えた全庁的な読書推進活動を担う組織を作り、総合的な事業展開が期待されるが、開館セレモニーに集まった町民の年齢層や「ほしい!会」の組織率(100名弱)
見た時その可能性は少なくはないと言えよう。なお、「ほしい!会」は今回の図書館開館を機に「柴田町図書館とともに歩む会」に衣替えした。

次に、図書館が間借りしている郷土館活動との提携事業が考えられる。柴田町は、歴史・文化・気質の点で子どもたちに生きた歴史・民俗教育を行える恵まれた条件を持っている。
図書館の事業展開も、このような活動を道を取り込んだものとすることにより、より重層的な学習と読書を組み合わせた事業展開が期待できると思われる。

以上のように、この図書館の持つ可能性は将来的に非常に大きいと言える。
できることならば、10年という長期計画と、5年という中期計画を教育委員会でしっかりともって、図書館を成長させ総合的展開を図って欲しいと強く願っている次第である。