2012年1月22日日曜日

アーカイブとまちごと図書館-まちとしょテラソ

小布施町立図書館
2011年1月27日雪時々曇り
http://machitoshoterrasow.com/index.html

長野電鉄鉄道の特急に乗って20分、雪交じりの天気の中を小布施の駅頭に降り立った。
駅前の賑わいは本来の町の中心とは別のところにあるということには慣れてきたが、それにしてもややさみしい感じがした。
街中に向かって少し歩くと、「こけし」という蕎麦屋さんがある。天気も天気なので、暖を取りたいこともあって昼食をとるため暖簾をくぐった。田毎そばという名前に興味をそそられ、食すこととした。
ここは、名所「田毎の月」で名高い千枚田の近くだけど、はてさてどんな飾りそばが出てくるのか興味が湧いたからだ。出てきたそばは、冷そばの上に大エビ天ぷらをまるごと1尾載せてある、その周りに山芋のすり身やきのこ、大根おろしなどいろいろな具が乗っており、信州の地粉を使っていると思われよくしまった香り高いそばであった。
1300円は高いように思えたが、味には満足した。

そこから駅頭にもどり、適当に通りをゆくと案内のとおり町役場、その裏に図書館があった。
図書館のホームページから予想はしていたが、鄙には珍しい斬新なデザインの図書館であった。
町役場の裏は小学校の校庭になっている、その横に図書館があるのだが、平屋建ての上に浅いすり鉢をかぶせたような屋根の曲線の美しさに惹かれるものがあった。
窓はどこも大きく区切ってあり、外交がたっぷり開いている。照明は、雪曇りの日でも殆どいらない感がするほど明るい。
入り口を入っての開放感といったらなかった。柱が細く上が枝状に分かれており、天井を支えている。天井は、ゆるい曲線を描いたスリット状に切りこまれた板で囲まれた手のいだが、白木の木目がそのまま下から見えて、心地良さを倍加しているような気がした。

この図書館には、所謂仕切りというものがない。なんとなくゾーンが置かれていて、シームレスに移動が可能である。事務所も開け放たれており、小さな書庫もオープンなところに置いてある。
館長の執務席は、入り口カウンター奥のちょっと大きめの椅子と大画面のディスプレイがその印である。ちなみにカウンターは、入り口横と奥の調べ物コーナーに2つ。閲覧席は、一面のガラスで採光された窓に沿ってゆったりと並べられている。児童書架と一般書架に沿ってそれぞれ置かれているのだが、誰がどこに座ろうと利用者のかってである。
ただ、一般向け書架の方にはどの席にも有線LANがしいてあり、PCを持ち込んだ人は自然とそちらの席を使うようになっているだけである。
入り口をはいると,左も窓に沿って絵本コーナーがあり,絨毯敷きになっていて、沓脱がある。
ここで読む姿勢は寝転がろうと、どうしようとこれも利用者の勝手なのだ。


入り口右手の窓にそって児童コーナーになっている。図書館の中央部分に一般図書のコーナーがある。その奥が調べ物コーナーである。

開館時間は、朝10時から夜8時まで、職員は9時に出勤し、1時間館内清掃と書架整理を行う。
ちなみに職員は、館長以下3名が常勤職員(内、館長と学芸員資格を持つ職員は、最長5年の期限付き任用職員)その他非常勤の期限雇用職員、臨時職員で延13名で運営している。8名は、カウンターなどのローテーションに入り、残り5名で企画、運営の仕事に携わる。
館長の花井氏は、TVなどを中心に映像制作に携わったディレクター経験が長いが、小布施町の取材を通してまちが進めようとしている、文化と人を大切にする気風が気に入り、10年前から移住し、図書館新築の話があったときに公募館長として25名の立候補者の中から選任された。

この図書館のコンセプトはなんだろうか。
花井氏の言葉は実にシンプルである。アーカイブを通じての町の文化行政と人のつながりを作ること。
アーカイブは、映像ディレクターであった花井氏の真骨頂であるが、今の生活と文化を100年先の子供たちに残すことをコンセプトに運営を考えているという。
ひとつは、小布施百人選、ひとつは小布施にちなんだ本のデジタル化と連想検索システムとの融合。これらを基底にしたさきに、ブックスストリート構想という街全体を本のあるまちにする計画が生まれた。

人と人のつながりは、ピカピカ現役のアーティストを招いての講演とワークショップ、それから着想した誰でもアーティストを試み、そこから様々アート倶楽部が生まれる。
そのような、取り組みの中からお父さん読み聞かせや夏休みラジオ体操(夏以外は腰痛体操)などの取り組みも市民の企画委員会から提案され実践されてきた。

花井氏の図書館の宇宙は図書館でまちづくりという大きな夢に展開している。






2010年6月7日月曜日

市民が作り育てた図書館/伊万里市民図書館

伊万里市民図書館
2008年4月27日(日)午前

諫早市立図書館とたらみ図書館

2008年4月26日(土)午後
対応:平田館長、古川副館長
諫早市図書館の揺籃期は明治期日本を代表する歌人、ハンセン病を得た後も文学活動を貫いた野口寧斎が、地元の有志とともに明治37年に創設した諫早文庫がある。
市民要望などを受け、市民センターの一部を使用していた図書館を、平成13年現在の地に新設移転した(述べ床面積7405平米)。
平成17年近隣5町と合併し、多良美(たらみ)図書館(3339平米)、森山町立図書館(1893平米)が改めて市立図書館となる。他に、西諫早図書館(726平米)、高来図書室、小長井図書室、飯盛図書室。公民館図書室としては8箇所。自動車文庫は、多良見とあわせ2台所有。どんぐり号は4000冊積載可能。施設単位の巡回を、主に月1回の配本と学期に1回の配本(保育所)を組み合わせてまわっている(30箇所)。図書館管理システムは18年1月に完成、インターネット予約を開始している。また、7館を一日1巡回配本車が回っている。

地上2F、地下1階。1Fが事務室、開架部分。中央サービスデスクを囲んで、一般、児童開架フロアーがこれを囲むようにしてある。一般開架室は吹き抜け(柱がない)構造で証明も自然証明。他に、伊藤静雄、野呂邦暢を記念するコーナー、ビジネス情報コーナー、子どもの文化の研究コーナーなどがある。
2Fは、視聴覚ホール、集会室、学習創作室、和室、ボランティア室、郷土史料室など集会機能。
他に視聴覚ライブラリーを持つ。嘱託1以外は、図書館が兼務。地下にBM機能、駐車スペース90台を用意する。
図書館長は嘱託館長であるが6年目(名誉館長として市川森一氏を推戴)、他の館長も嘱託。職員12名(司書6名)嘱託12名、臨時7名の体制。正規1:非正規2の体制。
蔵書24万点、貸出し56万点。財政的な特色としては、図書購入基金として市民の寄付金など3億円がプールされており、適宜活用し資料費の漸減に歯止めをかけている。

市民要望を受けた図書館を意識した取り組み方として、近くの商店街との連携交流を意識している。図書館利用者団体連絡協議会を結成し、図書館フェスティバルを毎年開催している。参加団体として図書館友の会、読書会、ボランティアの会、絵本の会、学校図書館ボランティア<心の種>。また、市川名誉館長がらみの企画として、シナリオ講座を定期開催し、地元のFMでも放送している。

文化事業として、年10回の図書館講座、年4回のシナリオ講座、子どもの時間(月2回)同012(月1回)、絵本原画展、講演会、手作り絵本教室など。
共通事業として、19年4月よりブックスタート事業を行っている。乳幼児健診時の読み聞かせの説明と実演などを行う。(毎月)

集会機能について、諫早市の図書館の特色として集会機能を併せ持つところが多いことから、会議室などの使用については有料化を図っている。時間貸しであり会議室、和室などは1時間300円程度(冷暖房費含む)。視聴覚ホールは時間1,500円程度となっている。
法17条との関係で疑問なしとはしないが、図書館関係団体に対しては無料の原則を貫かれるべきと思われる。


諫早市立たらみ図書館
4月26日午後 対応:松永館長、相良裕主任

1 なぜ、たらみ図書館なのか
小郡図書館の永利氏の紹介もあり、どうしても見学しておこうと思っていたところであるが、大変参考となった図書館であった。平成17年に1市5町が合併し、多良見町立図書館が諫早市立たらみ図書館となる。森山町立図書館も同様である。たらみ図書館は町の中心からは外れた海に近接した場所に位置する。近くに市立体育館がある。
職員は、正規5名うち有資格2名。13名が嘱託職員。蔵書10万冊。貸出し38万点。
1Fが開架スペースと事務室、BMスペース、喫茶室、一部会議室。2Fが開架書庫、集会機能。  
面積は3340平米。地上2階建。建物の設計管理を、プロポーザル方式での選考で寺田・大塚・小林計画同人が担当した。寺田氏は、伊万里図書館の設計責任者である。

2 図書館づくりのコンセプトは
設計協議プロジェクトや図書館作りフォーラムなどで徹底的な市民参加を採用した図書館作りを行う。特色として、図書館本体部分の書架は展示スペースを随所に織り交ぜた前頭葉刺激装置に満ちた仕掛けを作った。これは、伊万里市立図書館で採用したものをさらに進化させている。
総合カウンター以外に、ヤングアダルト・児童コーナーおよび郷土・行政コーナー付近に計2箇所の相談カウンターを設ける。
ヤングアダルトコーナーを思い切り広く取り、彼らの集いの場を与えている。貝のお話室、ヤングアダルトでのペイロン船展示、子どもコーナーの紙芝居書架をペイロン船に変形、など海のイメージをふんだんに盛り込んだ設計を行う。随所にある小読書スペースを作り楽しい読書へのいざないを行っている。
288人収容可能な舞台付視聴覚室(海のホール)、フリー読書スペース、静の広場(野外読書コーナー)、動の広場(入り口前のスペース、イベントなどの場所確保)会議室、和室、研修室、防音付講座室、野外スペース、喫茶コーナー、談話コーナー、展示回廊など社会教育的な要素や考えを取り入れた人と人の出会いの場をふんだんに設けている。また外側概観は、海の回廊(入り口へのいざない)などなど、これまでの寺田ワールドの集大成とも言える水準を確保している。
ちなみに、図書館全体のキャッチフレーズは「海からの贈り物」である。

3 たらみ図書館の事業展開
このような、コンセプトを持った図書館のイメージを具現化するものとして、職員やボランティアによるイベントがある。
貝のお話し室での幼児向けお話、海のホールでのストーリー・テリングや、高校生や大学生による演劇やミュージカル、屋上野外劇場(海と星の照らす劇場)での夜のお話会やお月見会、動の広場でのミニコンサート(毎月1回)、展示回廊での展示会・企画展、読書会、映画会など実に盛りだくさんの催しである。ボランティア養成講座は4回の講座を毎年組んでいる。
子ども読書の日(4月23日)は図書館祭り、開館記念日(11月3日)にはマリオネット劇場、図書館クイズ、フリーマーケット、触合いコンサートなどが行われる。

2)ブックスタート事業として、乳児相談と1歳半検診時にブックスタートパックをわたしている(毎月実施)、かつ事業としては、赤ちゃん、幼児、子ども向け以外に毎月1回プレママコースのお話し会を行っている。夏休みには前後7回にわたり子ども向け特別企画を組み、手作り会、映画界、図書館を使った宿題コンクールなどを行っている。
一方、研修室、講座室などの集会機能を持ったスペースは、図書館関係団体に限らず貸し出しを行っている。(一部有料)
3)自動車文庫は、30ポイントで貸し出しサービスを行っている。

4)学校との連携事業として、学級文庫への貸出しや自動車での巡回のほか、お話しの出前(15回)、ブックトーク(2回)、担当者連絡会議などを行っている。

久留米広域圏内協働利用協定と小郡市立図書館

小郡市立図書館
4月27日(日)午後
対応:永利和則館長

図書館は、(財)小郡市公園ふれあい公社に委託(指定管理)されている。同建物内に市文化会館(ホール)があり、図書館長が館長を兼務している。図書館施設には野田卯太郎文学資料館が併設されており、図書館は建物全体の1F一部に押し込めれた格好となっている。
2Fの一部が図書館書庫。職員は市からの派遣職員4名、それ以外は財団雇用の非常勤職員(9名)と財団常勤臨時職員(3名)よりなる(ほとんどは有資格者)。

小郡図書館の特色の第1は学校図書館との連携であろう。小学校8校、中学校5校、県立高校2校、専門学校2校に対し、毎週2回(水、金)巡回車を廻し図書館への要望のある資料や、学校同士の資料を配本巡回している。
図書館は、学校図書館支援センター機能を持ち専任2名(嘱託職員)を配置し、また調べ学習用などに1600冊の支援用資料を所蔵する。そのほかにBMが全小中学校にサービスを行っている。
学校には司書が配置(専任は2名)されており、図書館のオンライン端末を使って検索し電話ファックスメールなどで図書館に申し入れる。そのほか、学期ごとに学校側と図書館側で調整会議を持っている。学校司書と共同で「調べ学習資料集」などの各種ブックリストの作成も行っている。

次に興味深いのは、「久留米広域圏内11市町」共同利用協定と、福岡と佐賀の圏域を越えた共同貸出協定である。
また市内6箇所に返却ポストを設置しており、学校への巡回もこのサイクルの中に含めて行っている、

ブックスタートも平成17年から開始している。10ヶ月検診の際母親に対し、保健相談などのプログラム終了後に、ブックスタート推進員6名(職員3、ボランティア3)が対応し、実技指導も行っている。図書館、子育て支援センターの案内のあと、お話会のあと絵本を2冊づつ(6冊の中から)もらえるシステム。予算は図書館に査定されている。
2005年「母親の乳幼児養育に関する調査-ブックスタート事業とのかかわりから」という研究論文が生まれた(福岡女学院大学)。
最後にBMを活用し、市立病院に団体貸し出しで本の貸し出しを行っていることも参考となろうか。

椋鳩十今だ死せずー鹿児島県立図書館

鹿児島県立図書館
4月25日(金)午後
対応:津田修造館長
図書館訪問の目的は、「母と子の20分間読書運動」のその後を知るためである。久保田彦穂(椋鳩十)が館長時代の図書館は、県立文学館となり館長室はそのまま保存されているという。 
久保田彦穂が鹿児島県立図書館長になったのは昭和23年、43歳の時である。彼は、昭和41年まで図書館長を歴任するわけであるから、実に足掛け18年もの館図書館長を努めたこととなる。退職後は鹿児島女子短期大学大学の教授(児童文学、図書館)として教鞭をふるった。久保田のあとを継いだのが、高士与一(たかしよいち)である。
図書館長としての経歴は長いが基本的には、文学をよくする国語教師であったと思う。人間教育の手段として読書運動を位置づけた根源に何があったのが、なぜPTA読書ではなく母とこの読書だったのか、ということに私の問題意識がある。  

『読書運動』(叶沢清介編、社団法人日本図書館協会、1974)によれば、鹿児島県立図書館の読書運動における「農業文庫」は本を利用する型の読書形態、「母とこの20分間読書」は「本を楽しむ型」の読書形態だという。1963年当時鹿児島県内外には5000をこす読書グループがあったとされる。また、県立図書館は館内利用者のための予算に3倍する予算を充当して、市町村図書館や公民館図書部を通じてこれらのグループのために予算を充当した(間接方式)。
各種の参考資料、講師の斡旋、図書館間の資料の相互貸借などを積極的に行う(共同経営方式)、各種機関の活用、専門家やボランティアの積極的な助力(千手観音方式)などを縦糸としてこの運動を展開したとされる。(参考資料:「鹿児島県立図書館の館外活動のあり方」椋鳩十『図書館雑誌』1963年9月、ならびに「立体的読書活動」『鹿児島県読書活動調査報告』1962年)
昭和30年代の読書運動として、概ね4つほどの読書運動体があった。長野県のPTA母親文庫、 滋賀県の「明日からの課程を明るくするための本を読むお母さんの運動」高地市民図書館の運動(団体貸出し)、そして「母子20分読書」運動である。これらの運動は、お互いがお互いを意識したわけでもなくいわば自然発生的に生まれてきた。そしてどの運動にも共通しているのが、母親と子どもを主な対象としていること、公民館図書部や生活改善運動と結びついた運動であったことである。戦後民主主義思想の普及、女性解放の思潮を農村にも広げようとする本能的な同木津kwに乗った読書運動であったといえようか。そして、県立図書館や市民図書館の弱体化を記に財政的な基盤を奪われ衰退していった。まt、承和40年代以降、農村経済事態の急激な崩壊かとともにこれらの運動は急速に影響力を牛待っていったのではないだろうか。

私の関心は、このような地方における生活環境の変化の中で「母子20分読書」運動がどのような変遷を今日まで辿ったのか、または衰退していったのか。

注目したいのは、久保田が在籍していた昭和39年に「母子20分読書」運動を支える側面援助的正確が濃厚であった「心に火をたく献本運動」(実質的な献金運動)が3年間の期限を終わるとともに久保田が館長を退き、その後に「幼児に本を読んであげましょう」運動が開始されていることである。久保田のあとを引き継いだ館長は、新納教義であった。新納は昭和48年10月まで、館長職にとどまり児童室の充実や鹿児島方言などの収録を始める事業を着手するが、心に火をたく・・は件本運動とは証しているが、脆弱化した予算を補うための穴埋め的な性格をたぶんに持っていたのではないかと思われるのである
「母子20分読書」との違いは対象が小学生から就学前年齢に下げられていること、母は子の読書を聞く立場から子に読み聞かせする立場に逆転するのである。主体が子から親に転化している。さらに、この読書運動は平成13年「絵本による子育て支援プロジェクト事業」(3ヵ年)―自ら本に手を伸ばす子ども育成事業―へと発展していくこととなる。
久保田の描いた「館内利用者のための予算に3倍する予算を充当して」という思い切った予算の充当策と図書館や公民館を通じての間接方式、専門家やボランティアなどによる決め細やかな支援体制(千手観音方式)は永年にわたって鹿児島県立図書館および県内の図書館に生き残っていた。

筆者が見学を許された範囲の中での感想もそのことを示すいくつかの事実を確認した。
平成15年度まで巡行していた巡回車(自動車図書館)は、50地町村の自治体に対し春夏二回にわたって貸出し文庫を巡回していた。成人図書、児童図書、中学生向け図書、絵本、紙芝居など2000冊程度ををパックングして配本してまわっていた。そのため専任に正規職員2名を配置し、1,100万円円程度の予算を確保していた。複本も10冊まで用意していた。現在巡回用の車は動いていず、宅配便を使って一度に500冊程度の資料を配本している、専任職員も1名、予算も3分の1程度ととなっているが、脈々と続いている読書支援活動なのである。
一方鹿児島市立図書館では『家族ふれあい読み聞かせ教室』『楽しい親子読書教室』『親子読書グループ集会』にくわえ、「椋鳩十児童文学賞」(1等200万円)作品展を行うなど市レベルにおいても読書運動の命脈が受け継がれているようである。

倭王墳に共存する図書館/堺市立図書館

堺市立中央図書館・見学記
2009年2月24日(火)
 堺の町は、仁徳天皇量など天皇陵といわれる巨大古墳の宝庫である。また、中世から近世にかけて自由貿易港として栄え、戦国時代の最新兵器である火縄銃の生産と流通をほぼ独占して、巨万の富を蓄積した。そのような環境から、茶の湯の「天下3宗匠」といわれる千宗久、津田宗及、千利休が現れ茶の道を天下に広めて行く。特に千利休は、侘び茶の道を大成した千家流茶道の開祖として名高い。
 堺市中央図書館がある大仙公園は、あの仁徳天皇陵といわれている巨大古墳に隣接した広大な敷地の一角にある。この公園の中央付近には、壮麗とまではいいえないが優美さを備えたといって過言ではない市立博物館がある。博物館の入り口手前に2棟の茶室があり、その入り口に1対の石造がある。千利休と利休の茶の湯の師匠にあたる武野紹鴎の像である。市立博物館の前にその象徴としての1対の石造を見て、われわれは堺市の市民が最も愛する文化人を見るのである。茶の湯の文化の発祥の地、堺の市民はこのことを最も誇りとしているのだと感ずるのである。千利休の先輩格に当たる千宗久は茶の湯の名人でもあったが、天下一の鉄砲商人でもあった。現代版死の商人である。当時堺の町は、織田信長の庇護の下にあり、一定の自由自治の寛恕の元に、ほぼ独占的な鉄砲商人街を形成していたようだ。まず、日明貿易の集積港として培った国内外の交易に長けた商人が多く住んでいたし、中世から培ってきた鋳造技術を持つ職人集団を近郊に擁していた。また、後背地には良質な綿花の栽培地が広がっていた。(綿花は、火縄の原料となった)
 戦国時代末期に大量に必要とされた良質な鉄砲その必需品である火薬、火縄の材料を注文に応じて大量に調達し、製造販売する条件を日本で最も多く備えていたようだ。さらには、天下人たる織田信長、それを襲った豊臣秀吉、続く徳川家康らの本拠地もいずれも堺に近かった。堺の町は秀吉の時代に自由都市の象徴としての環濠を埋められてしまう。そして千利休も秀吉により殺害(実際には切腹を命じられた)される。その後の、大阪夏の陣で徳川側についた堺衆を天下人となった家康は保護に努めたが、太平の世の到来は鉄砲や大砲の大量生産をもはや必要とせず、その後の鎖国政策と西廻り・東廻りの航路の基点としての大阪が17世紀には天下の台所となり、堺の町を急速に衰退させた。
 千派の湯の道は千利休と関係が深かった大徳寺によった孫の千宗旦が千家を再興し、宗旦の次男・宗守が「武者小路千家官休庵」を、三男・宗佐が「表千家不審庵」を、四男・宗室が「裏千家今日庵」をそれぞれ起こすにいたる。こうして、千利休のとき堺州の茶の湯道は天下の配するところとなり、それを演出した秀吉自身の手により系統をたたれ、京の地において再興されるに至るのである。堺が生んだ交易と茶の湯2大文化は大阪と京都に引き継がれていく。
 幕末に結ばれた日米修交通商条約で幕府は堺・兵庫の開港を提案したが、ハリスの主張を入れ大阪開市、兵庫開港がきまりここでも国際交易都市堺の再興は頓挫する。
堺は、近世に入っても大規模な港の改修工事をつづけ、明治に入って全国に先駆けて官営レンガ工場が、また富岡についで2番目の官営紡績工場がつくられた。1903年の内国勧業博覧会には、当時としては国内最大規模の水族館が誘致され、京阪神位置のリゾートゾーンとして多くの観光客を引き寄せた。堺の町も再興に向け順調に歩みを進めたかに見えたが、先の大戦の際の戦災で旧市街地の大部分を消失した。堺の町の悲劇は続くのである。
 大戦後は臨海工業地帯の造成と工場群の誘致に成功、さらには京阪神地区のベットタウンとして泉北ニュータウンが造成され、重化学工業地帯および京阪神のベットタウンとしての性格を色濃く帯びることとなる。

 堺市立図書館は大正5年市西部の中心街に立てられた。戦災で図書館は燃えるも資料は全焼を免れた。昭和46年に現在の大仙公園内に新館が立てられた。基本設計は大阪市立大学栗原研究室(栗原嘉一郎、後の日本図書館協会施設部会委員長)が担当した。地下3階地上2階、延べ床面積4,600平米と当時としては最も進んだ図書館建築思想と技術により作られた。2階部分には各所に天窓構造が採用され自然光を取り入れられるよう工夫してある。屋根は上から見ると百舌が羽を広げた形をイメージした構図となっているという。(この地区は古くから「百舌」といわれる地名を持った)1階部分には、玄関口ロビーが広く取ってあり、開放感あふれる空間が取られている。基本機能は2階に集中しており、サービスがひとつのフロアーでできるように工夫されている。
 新館開館当時から司書採用を行っており職員の司書率が高い(正規職員92名中75名が司書)。さらには全市にくまなく分館を設置しいて、6地区館(1500~3000平米)7分館(150~500平米)2台の自動車文庫が配置されている。しかし、現在の資料費用は市民一人当たり92円と横浜市についで少ない。このことにより、登録率が41%と健闘はしている反面、貸出率は市民一人当たり5.3点とそれほど高くはない要因となっているようだ。
 堺市立図書館が、この間図書館界の耳目を集めた事件が2つあった。ひとつは分館の指定管理者制度導入化が図られたことである。これは市民団体などの反対があり、今のところ顕在化していない。一方、昨年1市民からBL(ボーイズ・ラブ)資料の公開に対する住民監査請求があり、これに中央図書館はBL本の公開書架からの撤去と18歳未満の利用者への貸出禁止を表明、これに対する図書館関係の民間団体や上野千鶴子氏らのグループの反対などを経て、貸出の解禁を決めた。図書館の方針が2転3転したいわゆるBL問題があった。
堺市立図書館はこれら2つの問題に対し公式の総括を行っていないので、これらの問題はいまだにくすぶり続けていると思われる。
 
 図書館の特色としては2つほど特筆すべきものがあるとおもう。
ひとつは郷土資料の充実である。昭和の初年に「堺市史」が編纂されそのときに収集された資料がコレクションの主部を形成している。図書館では一部これをデジタル化しインターネット上で公開している。さらには、安西文庫2,600点(安西冬衛:詩人)、上林文庫4,400点(上林貞治郎:経済学者)、後藤文庫1,000点(後藤清:法律学)、仲西文庫2,000点(仲西政一郎:登山家)、久野文庫20,000点(久野雄一郎:考古学)など遺贈された個人蔵書のコレクションも注目するところだ。
 次に、子どもへのサービス特に学校支援活動が盛んである印象を受けた。これには幾つかの要素があるようだ、ひとつは司書率が高く職員の資質がこのような活動を支えていること、二つには学校図書館支援センターを中央と地区館に設置し、各図書館に2~3名のスタッフを配置し、彼らが区内の重点校に集中的な支援を行っていること。3点目に堺市子ども文庫連絡会傘下の13の家庭文庫・地域文庫の存在やおはなし・絵本のボランティアグループ(13団体)などが、学校への出前読み聞かせや区民祭りとの連携事業、学校訪問、保健センターとの連携によるブックスタート事業などが積極的に行っていることがあげられよう。(ブックスタート事業は1000万円の予算が、市民の直訴により査定された)
 いっぽう、図書館を支える市民グループのその他の活動も活発であるといえる。これには二つの系統があるようだ。ひとつは図書館サポーター養成講座請講座を修了した「図書館サポーター倶楽部」による、ほんの修理や書架の整理、図書館行事へのスタッフ派遣など。一方は「ネットワークと・ま・と」につどう読書会や点訳グループ、音訳グループ、個人ボランティアなどによる図書館関係のボランティアの育成・研修を目的とした行事の積み重ねなどである。これらのまことに重層的な市民同士の協力関係の織り成す成果が、図書館による地域コミュニティー形成に果たす役割・可能性の重さををあらわしているといえよう。ちなみに、これらの活動を背景にした「堺市立図書館協議会」の平成20年8月の「意見書」は副題として「地域コミュニティーに貢献する図書館を目指して」となっている。
 この中で注目されるのは、(指定管理者制度に関連して)「堺市の図書館の運営形体」を章立てしていることである。
ここでは、図書費の充実と、司書の専門性をより発揮されるための体制作りを求めながらも、アウトソーシングの活用などによる管理運営の効率化は不可欠とし、図書館の管理運営計画を決定するに当たって以下の視点を十分検討すべきとしているのである。
・運営形体が市民本位のものであり、そのために市民のニーズを的確に把握する。
一般論ではなく当該館の歴史を含む地域の実情にあったものであること。
職員の専門的知識や能力が十分発揮できること。
中長期の視野に立った判断をすること
さらに、専門的業務の中に「市民の課題解決」「子育て支援・子ども読書支援」「地域活動への支援」に専門の担当を配置する、中央図書館に全館企画立案、ビジネス・行政支援地域情報の収集活用する担当を専任で置くという具体的な提案をしている。
むべなるかなというべき内容である。

喬木村立椋鳩十記念館・図書館と椋鳩十

はじめに
 喬木村(たかぎむら)は、天竜川を挟んで飯田市の対岸に広がる河岸段丘地にある。児童文学者であり鹿児島県立図書館長当時の活躍で、日本の図書館界に大きな礎を築いた椋鳩十(本名:久保田彦穂)が中学卒業までの多感な少年時代を送った地であり、また晩年別荘を建てそこを拠点に講演と執筆の多忙な日々をすごした地でもある。喬木村の図書館は公民館内図書室として永くあったが、平成4年に椋鳩十記念館設立を機に、これを併設した図書館として開館した。

 図書館・記念館の開館にあわせ、村は此処を基点に椋の胸像がある久保田家の墓地までの約3キロを遊歩道として整備した。図書館からの眺めは特に西面の中央アルプス側の山稜の眺めがすばらしい。図書館は、椋鳩十を意識して児童書に力を入れた蔵書構成となっており西面には椋の作品などを中心に児童文学室がある。玄関を入ってすぐに靴脱ぎがあり、ここで脱靴して入館する。記念館入場者も同様である。記念館は一般展示室を挟んで図書館と構造的にはつながっているし、図書館が開館中は誰でも入場が可能である。むろん無料である。 
 久保田館長のお話しでは、入館者は、学校の遠足で見学に来る小学生が圧倒的に多いとのことであった。記念館で熱心な図書館長の説明を聞いた後に、左手に摺古木山などの山姿を見ながらの遊歩道の道のりは、遠足にはこれ以上はないといってよいほどのロケーションである。道すがら、喬木小学校、そして中学校があり近くには「とろりんこ公園」「ハイジの碑公園」や「アルプスの丘公園」などが整備されている。すべて、椋鳩十の作品にちなんだイメージでつくられている。実際、椋も小学時代はこの道を通学路として毎日使っていたはずである。

 椋鳩十記念館・図書館は、これらの施設やいまや史跡となった椋の胸像などと一体としてみなさなくてはなるまい。昭和のはじめに、椋は飯田中学(現飯田高校)に通っている。学級で中学に上がれる子どもは2~3名であったというから、当時の久保田家にはそれを支えるだけの経済力があったということである。彼の父親は、牧場を経営し近郊に牛乳を販売して生計を立てていたという。にもかかわらず、椋少年が好きな本を希望通りに与えてもらえるだけの裕福さはなかった。この非裕福さ加減が、後の読書運動推進運動の先頭に立った椋の素養を作っているのであろうか。

 記念館は、椋の書斎をイメージした和室にはじまり、少年時代の椋の生活環境を髣髴させる展示品で飾られている。少年時代の本人及び家族の写真が、私には特に印象的であった。昭和初期に家族の集合写真がとれるだけの家計ということである。椋本人の蔵書のほとんどは鹿児島県加治木町の記念館に保存されており、こちらには写真類が多く保管されている。
また、村民が中心となり椋および記念館を顕彰する会が作られており、紀要の出版なども行われている。

≪下伊那の花火≫
「遠花火 消ゆるあとには ほしのさと」図書館玄関前に椋本人により揮毫され設置されている自作の句碑である。
 下伊那では、夏祭りに花火を上げるのがどこの神社でも慣例になっているようだ。だから夏は毎週花火の打ち上げが見えるというのだ。特に、伊那山地側から下伊那平を一望できる位置にある喬木村からの眺めはさぞやの景観であろうかと思われる。このことは、椋の長男久保田喬彦氏が著わした『父・椋鳩十』で父から直接聞いた話しとして語られていることである。平成15年の記録を見ると、7月24日(土)深見の祇園祭(阿南町)に始まり、8月にはいって毎週下伊那のどこかで祭りが行われ、必ずといっていい程度に花火が打ち上げられるのだ。なかんずく8月13日(金)~16日(日)は4日連続となり、とりわけ14日(土)は浪合村、大鹿村、根羽村の3箇所、15日(日)は喬木村、上村、売木村、天龍村の4箇所と集中し、その後も毎週土曜または日曜日を中心に10月中旬まで途切れることなく打ち上げ花火付きのお祭りが開催されている。椋が子どもたちに言って聞かせた伊那盆地の花火の豪快さは、あながちどころか、想像以上にすばらしいものなのだと思う。

 私が、伊那谷を訪れて感じたものは、例えば自分が住む秦野市においても感ずると同質の、落ち着きや安心感といったものである。あるいは、その思いは伊那のほうが山の深さや大きさの面でずっと勝っているだけ強いのであろうと思われる。山を抱えたものが、その土地に感ずる安心感といったものである。
 山はまず、豊富な栄養分のつまった飲用水を間断なく里に提供してくれる、台風や雪から里を守ってくれる。四季折々の風景は、美しく変化に富んでいる。加えて伊那谷は比較的広い耕作に適した傾斜地を、天竜川沿いにもっている。幾重もの河岸段丘がそれだ。平野部に比して耕作面積も狭く同一面あたりの収量も少なくはあるが、季節ごとや朝夕の寒暖差が大きいため作物が美味に育つ。従って、作業者の努力は報われ、住みやすい環境がそこに湧出されていくのである。そして鄙の地ゆえに、今日の都や東京の文化に対する渇望が都会人に比べ非常に強いのだ。そのために信州わけても伊那地方を含む筑摩郡域は、教育に熱心なる土地柄として全国にその名をとどろかせている。

≪小説『夜明け前』の時代背景≫
 島崎藤村の晩年の小説『夜明け前』は、江戸末期から明治20年ごろまでの中仙道馬籠宿で本陣宿を営む戸主「青山半蔵」の生涯を描いた傑作だが、主人公半蔵のモデルは藤村の実の父親である。中学を東京の新興・明治学院中学で過ごした藤村は、多感な青春期を東京しか見ずに過ごした。そのことが、彼の西洋、ハイカラ好みを染色したが、反面父の国学仕込の学風を好まなかった。半蔵は、熱心な平田国学門人であり、自宅を開放し自ら私塾の教師を務めるほどの教育熱心な素封家であった。当時、南信濃地方には平田篤胤の国学を信奉する郷の者が多く、平田門下では全国でもトップクラスの質量を誇っていた、その発信地は下伊那であった。平田篤胤直下の弟子がこの地で国学の講義を開講したことによる。彼や同門の友人に会うため、半蔵は一日がかりの木曽谷から伊那谷への峠道を通うこと度々のことであった。『夜明け前』にはそんな平田門下生同士の交流の様子が、生き生きと描かれている。

 明治初期にこの地方は、新政府による地租改正、郡令の専断による入会地への権利剥奪により人びとの生活は疲弊した。半蔵は後に発狂にいたりそれが彼の命を奪うのであるが、その因となったのが、これらの民の窮状を救うべく奔走した努力が時の地方政府により壟断され、彼の戸長解職にまでいたったことにある(いわゆる「山林事件」という)。また一方では、半蔵の存命中に飯田事件のような重大事件が起こっている。地方政府の失政が地方政府転覆計画を企てるほどまでに、反体制的な気分が醸成されたことが背景となったのであるが、藤村は近世史の中でこれを語らずして何を語るかともいえるような「大事件」に触れることを何故か意識的に避けたといえよう、何故だろうか。
 平田国学のような皇国史観の色濃い思想を信奉する教養人が、何ゆえに新体制に絶望していったのか、明治維新とは庶民にとって何だったのか。『夜明け前』は半蔵の生涯を描くことで、このことを世に問うている。

≪下伊那地方の青年会運動と椋鳩十≫
 さて、一方で明治末期から盛んとなった養蚕産業により伊那谷の経済は急激に潤い、となりの飛騨の国(現在は岐阜県であるが、明治期の一時期は伊那と同じ筑摩県)から作業労働者を大量に雇い入れるほどにまで、活気にあふれた地域となった。これらの財政的な豊かさを背景として、学校や芝居小屋、人形芝居舞台などに加え、村々に公民館的な建物(青年会館)を作る機運が高まっていった。村々に伝統的に組織された青年会を中心に自由大学などの自主的学習活動が展開されていくのだ。その中で図書館(青年文庫)は、青年たちの新しい活気に満ちた時代の新知識をみんなで学習したいという欲求から生まれたものだ。青年たちは、わずかなお金を出し合って運営資金に当て、それでも足りない分は入会地の薪木切り出しなどによる労賃を当て、本を買う費用を捻出した。それは、小野村や、上郷村だけではなく、下伊那地方全体において盛んに行われた。
 
 そのような時、東京から英語の学生教師が飯田中学に赴任した。名を正木ひろしという。彼が下伊那の地を最初の就職先をして選んだ理由も、下伊那地方にみなぎる革新的なあるいは活性化した雰囲気に引かれてのことと思われる。彼は、いまだ封建的な雰囲気を引きずる中学校の内実になじめずにいる子どもたちを集めて読書会を開く。佐々木という後に法政大学の国文学教員となる先輩教諭と二人で読書会は運営された。その読書会は「またたく星の群れ」と命名された。この「またたく星の群れ」に、久保田彦穂という少年がいた。後の、椋鳩十である。
「またたく星の群れ」は彦穂少年にとっては、思い出深い人生勉強の場となる。椋は後に、ある講演で次のように回想している。
「正木先生は、田舎の中学生なんか聞いたこともないような、カーペンターとかカーライル、トルストイといった人びとの著作から、さわりの部分だけを原書のままガリ版刷りして配り、それを訳してくれそれから独特の解釈をしてとうとうと論じてくれました。佐々木先生は、現代作家のものをガリ版刷りにしてテキストを作り、講義してくれました」・・・「学校の休み時間なども・・・・我々のレベルまで下がって、「この野郎何をいうか」とか「それは間違いだぞ」と、(我々と)同じように口から泡を飛ばして(人生観や、世界観の)議論をやってくれました。私はあのころ。佐々木先生や正木先生に出会ったことが、ほんとうに幸せだったと思います。今考えてみても、何かしら幸福なものが心の中にポーッと暖かく浮かんできます」

 後に、法政大学に進学し詩作に励み、当時最も時代の先端を行く佐藤惣之助率いる「詩の家」でも将来を嘱望された若干20歳の才能は、このとき培われたのだと私は思うのだ。ちなみに正木先生は、大学卒業と同時に弁護士となる。その後弁護士として多くの難事件(首なし事件、広島八海事件、メーデープラカード事件、チャタレイ裁判、三里塚事件、丸正事件など)に立ち向かったあの「正木弁護士」その人なのである。そして彼が生涯をかけて取り組んだ活動、それが飯田事件の足跡を収集し、さらにその写真を多数残し後世のわれわれに伝えたことであった。彼の死後、残された資料群が飯田市立図書館に保管されたということも、別の項で述べたとおりである。
 そして椋は、次のようにも語るのだ。「『瞬く星の群れ』の文学仲間で、同じ村から通っていた学生が3人いました。私と水野は貧乏でなかなか本が買えないので、大沢が買ったばかりの本を、仲間である水野と私に読んでくれ、私たちは(それを)空を眺めながら聞くこともありました。・・・・(彼の読んでくれた世界の)空想が(私の中で)自由に広がりました」
 まるで、後に椋が鹿児島県立図書館長時代に取りくんだ読書運動(「母と子の20分間読書運動」)を彷彿させるようなシーンではないだろうか。彼が提唱した読書運動は、母親が一日20分だけ子どものために耳を傾け、子どもが音読するのを聞こうという運動である。子の感動や、心の移ろい、成長がそのまま母に伝わり、親と子が感動や喜びを共にする中で、親と子の絆、家族の絆を強めていこうという提案であった。
喬木村の子どもたちが、椋の本を読みながら、夏には毎週のように見える花火に驚きの声を揚げ、四季折々の季節感豊かな自然の中で成長していく、そんな村にいま椋の名を冠した図書館と記念館があるのである。
(この項、終了)

付記:
以上の論稿は喬木村立椋鳩十記念館・図書館久保田毅館長へのインタビュー(2008年9月20日)と、いただいた諸資料を参考にして西野の責任にて執筆しました。なお、図書館や事業、その他人物の評価についてはすべて西野が独断にて行ったものであり、インタビューにお応えいただいた内容とは別のものであることを念のためお断り申し上げます。
調査にご協力いただいた、久保田様はじめ図書館員の皆様に心より感謝申し上げます。 

参考文献:
『村々に読書の灯を-椋鳩十の図書館論』(本村寿年 理論社 1997 )
『父 椋鳩十物語』(久保田喬彦 理論社 1997)
『椋文学の軌跡』(たかしよいち 理論社 1989)
『母と子の20分間読書』(椋鳩十 あすなろ書房 1994)
『読書運動』シリーズ・図書館の仕事・16(叶沢清介 社団法人日本図書館協会 1974)
『信濃少年記 椋鳩十の本 第20巻』(椋鳩十 理論社 1983)
『夕の花園 椋鳩十の本 第1巻 』(椋鳩十 理論社 1982)
『鷲の唄 椋鳩十の本 第2巻』(椋鳩十 理論社 1982 )
『感動と運命 椋鳩十生誕100年記念誌』(椋鳩十記念館 2005)
『紀要 感動と運命』第2号(椋鳩十顕彰会・椋鳩十記念館 2008)
『夜明け前 第1部 第2部 』(島崎藤村 岩波文庫 2001)

「喬木村立椋鳩十記念館・図書館」
http://www.vill.takagi.nagano.jp/sisetu/muku.html 2008.10.1
「飯田・下伊那の花火(平成15年)」
http://www.pref.nagano.jp/xtihou/simoina/syoukou/event/e16nabi.htm 2008.10.1